2011年09月22日(金)萬晩報主任研究員 服部巌
 麗澤大に所蔵の戦前の朝鮮、満州、台湾に進出した日本企業の資料の中から、祖父の会社の釜山支店の記録と写真が出てきました。この6月のことです。支店の所在地や店構えの写真、敗戦時の資産没収などの資料は興味深いものでした。私の祖父服部国太は佐渡ヶ島の出身で東京での修行の後独立して、大阪船場に文房具卸・服部洋行を起こしました。明治末期のことです。創立後間もなく日本の大陸支配に乗じて事業を朝鮮、満州に拡大したものと思われますが、明治13年生まれの祖父が40歳前後の血気盛んな頃で、国策の機を見て敏というか行動力旺盛だったことが窺えます。釜山を足掛かりに京城(現ソウル)、大連、奉天(現瀋陽)と事業拡大し成功を収めていきました。写真は大正元年、今から100年ほども前の光景で初めて見るものでした。地名には釜山府大廰町3丁目12番とありました。
 当初は出てきた資料に触発され、その地を見たいと気軽に思い立った息子との二人旅でした。同じ行くなら大阪から海路での貧乏旅行をと、横浜からは深夜高速バスで、大阪での時間待ちの間を縫って通天閣に上り、360度の大阪を息子に詳しく案内したのちPanStarFerryという韓国の2万1000トンの、豪華とはいえないまでも一応国際航路の客船での19時間の旅、折からの中秋の月の下滑るように穏やかに波を進むのは中々の風情でした。ホールではマジックやダンスに生演奏なども交えて乗客を飽きさせない趣向も用意され、息子はいたくご満悦でしたが僕にとっては上部甲板で潮風に吹かれながら大阪-釜山を空路でなく海路で渡ることに思いをめぐらすひと時が貴重でした。
 80余万人ともいわれる在日コリアンの多くが移り住む大阪、彼らにとってかつては空路など想像すら出来ず船旅は故郷を繋ぐ唯一の交通手段だったはず、いやそれすらも当時の在日の人には困難であったことでしょう。門司、下関を巡って後、かなり離れた地点で対馬を見てその直後には対岸に早や朝鮮を望み、この近さは渡ったものでないと実感できぬ驚きでした。仕事で幾度かソウル、大邱は訪れたことがありますが、僕にとり釜山は心理的にソウルのその先に位置していたことを痛感しました。
 そして大正の初期当時の祖父の影をひと際鮮明に感じた一瞬でもありました。その昔阿倍仲麻呂、空海をはじめ遣唐使は、どうしてこのコースを採らなかったのか?遭難のリスクを考慮すれば、このコースが安全な筈なのに陸路にはそれ以上のリスクがあったのだろうか?などと悠久の奈良の昔に思いを馳せるひと時でもありました。その意味でも大阪からの航路は、その場に立ってみて初めて気づく濃密な時間でありました。
 釜山は神戸に似て山並みが海岸線近くまでせり出し、その名の通り釜を伏せた形状故の地名なのだろうと想像を逞しくさせられる風景です。街は賑わっているものの、ソウルのようなギスギスした都会とは程遠く、昔ながらの港町の雰囲気を十分に残しています。宿舎に入る前に立ち寄った国際市場(クックシジャ)という釜山中央駅の真正面の一角に、今回の旅の目的地「大廰洞」(大庁町)に通じる大廰路(大庁大通り)を見つけました。
 それは肩すかしを食ったような呆気ない発見でしたが、探訪は翌日のお楽しみに残してどこやらSFのフィッシャーマンズ・ワーフに似たチャーガルチ魚市場や露店などを冷やかしながら、しばらくは街の雰囲気に浸りました。殆ど日本語が通じることにも距離の近さが感じられます。露店のオヤジの「いいベルトあるよ!長尺もたくさん」と僕の腹を見てニタリとしたのには閉口しましたが・・。
 翌朝、大廰町3街区12番(現在は中区大庁)を目指しました。区画は当時のままで探索は難しいものでなく「街区の突き当りで背景に小さな山」という、写真の光景そのままの場所が簡単に見つけ出せました。神戸でいえば三ノ宮から埠頭あたりの雰囲気です。大廰という名の通り昔は役所が立ち並んだ街だったのかも知れません。今は歴史公園のエリアの一画になっていて、目的の場所は「近代史料館」脇に立つ独立した建物になっていました。当然建て替えられているのでしょうが、佇まいは写真と酷似していて此処だという確信めいたものを感じました。小山の頂上には寺院があり隣には白い塔が立つ妙な取り合わせの地でした。
 そこに立った時、思わず頭を過ぎるものがありました。うまく言い表せないのですが、自分が昔30歳のころ初の海外赴任地であるニューヨークに降り立った時の感覚です。
「思うことを信じてやって来たら此処まで来てしまった」というような感覚です。
 ぼくには20歳前に家庭面で幾度か困難に直面した経験があります。しかし悲壮観などは全くなく楽観的に「It’s not my turn, not me!」とでもいうか、この困難は僕のもんじゃない、僕のゲームはこれからなんだというようなネアカ感覚でくぐり抜け成人しました。
 その意味でニューヨークは「さぁもう後がないぞ、自分で蒔いた種なんだから」と奮い立ったものです。きっと祖父も事業を起こしてこの釜山に立ったとき、そんな感じではなかったろうか? 10歳の時、逝ってしまった祖父を何かより身近に感じることが出来ました。この釜山を足掛かりとして祖父はソウル、大連、奉天(瀋陽)と事業を拡大していきます。
「佐渡人の気風は『進取の気象』にあり」と祖父から聞かされたと、子供のころ父から伝え聞いたことがあります。狭隘な島国から飛び出すことにこそ、若者は価値を見出そうとするのだと。日蓮、世阿弥、日野資朝・・・本土に戻れない流人たちが、無念さの一方で後事を島の若者に託して語り継ぐのが習いとなり、ある意味、脱出願望は島の若者の文化になって行ったというのが祖父の持論だったようです。だから北一輝のような過激分子も輩出するのだとも言っていたようです。
 さて足かけ4日の滞在日程の間、精力的に西へ東へ動き回りましたが交通手段はすべて地下鉄と徒歩で通しました。現役の頃は時間優先の効率主義で、電車などほとんど使わずに車が大半でした。しかし今回蟲のように地面を這いずり廻ってみて見えるものが全く違うことに驚きました。極論すれば約30年の間40カ国近い国と地域を動き回って、僕は何を見て来たのだろう?随分と惜しいことをしたものだというのが実感です。
 精力的に歩いた分だけ腹も減りました。しかし毎度の食事は空腹を満足させてくれただけではないかも知れません。なかでも到着初日にチャガルチ魚市場で食した活け飯蛸の韓風刺身、最後の晩餐に中央駅そばでふらりと入ったコムタン屋でトライしたソルロンタンのおじやは絶品でした。特に後者は味覚を通り越してハートに沁み込むような、遠い数百年以上も前に渡来した我が服部のルーツの記憶が覚醒したような不思議な感じがしました。
 見たもの聞いたもの、思ったことが頭から溢れ出しそうになる凝縮の6日間でした。一衣帯水とはよく言ったもので、両国の長いお付き合いはまったく近くて遠い、かと思えば遠くて近い腐れ縁のようです。その間には不幸な関係の時代もありました。しかし歴史を知らなさ過ぎるのも困ったものですがデリケートになり過ぎるのも考え物だなと、いま思います。帰路の船で出くわした日韓交流プログラムの高校生達の軽いノリのコミュニケーションをみていてつくづくそう思いました。この先はこの子らが作っていくのかと思うと少しホッとしたのもまた事実です。
 旅もようやく終わりに近づきました。今回の旅で思ったことの一つを最後にご紹介します。
 出典がどこかも定かでないのですが、「子孫のために美田を買わず」という言葉があります。
 旅の途中でふと思ったのですがそれは美田の有る無しが問題なのではなく、子孫はそのような祖先の残した事跡に隠されたロマンやスピリットを、その先の孫や子に責任をもって語り継ぐことこそ大切なのではないか?ということです。自分自身も孫を持つ身分になって、そんなことを意識するようになったのかなと改めて思います。