山田良政(やまだ・よしまさ=1868-1900)津軽生まれで、孫文の革命を早い時期から支援し、1900年、広州市郊外で起きた恵州起義で命を落とした最初の外国人となった。
 明治5年、津軽には藩校を引き継いだ後の東奥義塾となる弘前漢英学校が誕生、キリスト教宣教師を早くから招き開明的学風を育んだ。良政はそんな東奥義塾を卒業後、同郷の陸羯南を頼り上京することによって、中国大陸に視野を広げるきっかけとなった。
 1890年に北海道昆布会社の上海支店勤務となり、清朝の疲弊と列強進出にもがき苦しむ中国を目の当たりに し、さらに深く大陸に思いを馳せるようになった。孫文との出会いは1899年、神田三崎町だった。95年の広州起義に失敗しながらも再起を願う孫文の革命 への強い志に意気投合。翌1900年、開校された南京同文書院に教授兼幹事として赴任した。
 同書院は近衛篤麿らがアジアの経綸を打ち立てるべく設立した東亜同文会の大陸での学び舎だった。翌年、上海に移り東亜同文書院となり、終戦まで多くの大陸人士を育んだ。
 恵州起州に際しては孫文と台北で合流、叔父の菊池九郎の旧知だった台湾民政長官・後藤新平に会い、援助の約束をもらったが、日本では政権が山県有鼎から中国不干渉主義者だった伊藤博文に代り、台湾総督・児玉源太郎が約束した武器供与がご破算となってしまった。
 それでも良政は恵州にあった革命軍の鄭士良陣営に合流、清朝官軍に捕われた。日本字を名乗れば解放された可能性もあったが、最期まで中国人を通し処刑された。
 良政の弟純三郎もまた後に中国革命に参画し、孫文が1925年、北京で死去した時に立ち会った唯一の日本人となるなど生涯、中国革命の中枢にいた。山田良政・純三郎兄弟は宮崎滔天、梅屋庄吉らとともに中国革命に大きな足跡を残した日本人である。
 孫文は辛亥革命の後、1918年に部下を恵州に派遣して遺骨を探させたが、見つからなかった。その死を悼んだ孫文は山田家の菩提寺である弘前市の貞唱寺に自ら石碑を建てて、次の碑文を刻んだ。
「弘前の人なり。康子八月、革命軍恵州に起つ」君身を挺して義に趣き、遂に戦死す。嗚呼其人道の犠牲、亜州の先覚たり。身は堙滅すと雖も、而も其志は朽ず」。