7月10日、京都で友人の中野有さんと食事をし、最後は四条烏丸付近の隠れバー蔵を訪れた。モルガンお雪が住んだ場所がバーとなっている。バーは蔵を改装したもので、ガラス張りの床の下にはお雪の財宝があったとされる大きな金庫がある。
 不覚ながら祇園の芸者お雪さんが金融王の親族ジョン・モルガンに見初められ、ヨーロッパ社交界で一世を風靡したということを知らなかった。
 物語は以下のようなことだった。京都のタウン誌から転載したい。

 明治35年春、京都は桜と都おどりでわいていた。舞台は京都南座、その楽屋では出番のお雪が現れず、女将はじめ兄の音吉が人さわぎをしていた。
 そこへ、日本見物に来たアメリカの大金持ちモルガン氏が秘書のミツコをつれて現れ、紙の雪や造花の桜をみて大喜び・・・。
 その頃、お雪は恋人の京大生・川村が就職を受けた都銀行が、芸者の恋人がいるとのことで就職が難航しているときいて、川村のためお雪は抗議に行った帰り であった。知恩院あたりにさしかかった時、マキノ省三ひきいる大活動写真のロケーション現場にぶつかった。撮影が目茶目茶になってどなるマキノ省 三・・・。
 都踊りの舞台にたどりついたお雪は、鷺娘をおどっていた。クライマックスに達した頃、雪が例によって降って来た。
 これは小道具係を買収したモルガンとミツコの二人で、雪がなくなって紙幣の雪を降らし、舞台は大混乱となる・・・。
 それから数日後、モルガンとミツコは、先日のおわびにとお雪を料亭に呼んだ。胡弓をひきひたすらお客に尽す日本女性のやさしさに、その夜からすっかりモルガンはお雪のとりこになってしまったのである。
 モルガンの求婚ははげしかった。誠意をもってお雪を愛しつづけた。
 川村とモルガンとの間に入り、お雪は悩み苦しんだ。マキノと音吉は、お雪の苦学生川村に対する純情な愛に同情し、二人のために人肌ぬぐことになった。
 マキノと音吉は、モルガンに身をひかすため、芸者お雪を落籍するには四万円という金が必要だとモルガンにつげた。(当時四万円あれば南座が買えたと言われている)
 しかしお雪さんと結婚出来るのならと、アメリカに帰り、四万円を用意して来てしまった。・・・。
 追いつめられた川村とお雪は駆落ちを決意し、その日の最終列車で北海道に行き、新しく出発する約束をした。もちろん、兄の音吉とマキノは協力した。
 だが、お雪は祇園のしきたりから逃れることは出来なかった・・・。
 日露戦争の報をお雪はモルガンとの新婚旅行でアメリカへ行く船の中できかされた。
 すべては遠い国の出来事のような気がした。モルガンの妻となったからは、お雪は夫の国の風俗習慣に従うべく、船の中でモルガンの特訓を受けていた。祇園 から一歩も出たことのないお雪にとって、外国での生活は気の遠くなるようなことばかりであった。四ツ足のものは、祇園では当時たべたことはなかったし、着 物以外のものは着たことのないお雪・・・。
 しかし船がサンフランシスコに着いた時、そこに待っていたのは、モルガン財閥はもちろんアメリカ社交界が、芸者を妻にして来たジョージ・モルガンに対して交際を拒否して来たことだった。
 アメリカ上陸をあきらめ、ヨーロッパに向い、やっとパリで二人が自由な生活を得たと思ったのもつかの間、モルガンは、スペインで病死してしまった。それ から10年――ニースでひっそり生活しているお雪をたずねて来たのは、パリ産業博覧会に日本映画を出品するためにやって来たマキノ省三と、都銀行の代表とし て出張して来た川村俊介の二人だった。
 マキノは二人の再出発をすすめた。二か月後、お雪がその気になって博覧会場に出かけてみると、マキノが一人呆然として待っていた。
 川村が心臓発作で急死したのである。
 狂ったように太鼓を乱打するお雪・・・。
 昭和13年、お雪は日本に帰って来た。そして日本は、お雪の夫モルガンの故郷であるアメリカと戦争に入った・・・。

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 京都が空襲されなかったのは    早坂 暁
 京都が空襲されなかったのはモルガンお雪さんが住んでいたからである。モルガン財閥はその絶大な影響力でアメリカ政府に働きかけ、そうさせたのである。
 ――と、こういう説をなすのは映画監督のマキノ雅弘氏だ。
 マキノ雅弘氏は、此の芝居に登場しているマキノ省三監督の息子さんである。
 実際にマキノ省三さんは、お雪さんと親しかったようで、芝居に出てくる「身請け代四万円」をお雪さんに吹きこんだのは本当のことらしい。
 当今、4万円というと、まことに迫力のない金額だが、聞くところによると京都随一の劇場「南座」が当時の4万円の建築費だったというから、例えてみれば当時帝劇を買って下さいというのと同じことである。
 本当にお雪さんが居たせいで京都が空襲にあわなかったかどうかは知らないが、お雪さんは、夫の国の爆撃機が爆弾をつんで自分の頭上をとんでいるのを、ど んな気持ちで見上げていただろう。お雪さんの家には、特高刑事がしきりに訪れたというから、アメリカのスパイぐらいに見られていたらしい。
 今年の夏、お雪さんの墓へ行った。
 京都のはずれ、小さな丘にかこまれた墓地に、お雪さんの小さな墓があった。白い十字架の墓である。
 お雪さんは日本人でもなく、アメリカ人でもなく、無国籍の人間として晩年を送った。
 ひっそりとして人で、多くを語らず、ひっそりと死んでいったのだが、恐らくその胸には声大きく叫びたいこと、訴えたいことが深く渦まいていたにちがいない。
 貧乏のために、祇園の芸者となり、つまりは金で買われる日々も辛かったろうし、モルガンにとついで、どれほどの遺産をゆずりうけたのだろうと散々に勘ぐられる日々も、またうとましかったにちがいにない。
 考えてみれば、お雪さんの一生は金との格闘の一生であったといえる。
 お雪さんの最期の言葉は、養女のナミ江さんが聞いている。
「まだ死なへんのやな。それやったら言うておきたいことがある。・・・みんなにアイスクリームを買うてあげなさい」
 きれいな死に顔だったそうだ。
 墓にはテレジア・ユキ・モルガンと名を刻んである。