共同通信社報に書いた別れの言葉
最初の赴任地は大津だった。記者2人で寂しく、産経と読売の先輩に世話になった。文化財記事を多く書いて将来 は文化部記者と思っていた。比叡山が琵琶湖に落ち込むなだらかスロープに見とれて終の棲家にしてもいいと考えた。高松から大阪に転じた先が経済部だった。 「経済っておもしろいですね」と先輩におべんちゃらを言ったのが運の尽きだった。支局長はトンさんといって人情の塊だった。「人事の要諦は請われるままに 行くことだ」と言われそんなものかと考えた。
本社経済部にやってきたのはプラザ合意の年だった。通産省クラブで「通産大臣」と書いてまた先輩に怒られた。バブルの真っ最中に日米構造協議を取材して、ワシントン郊外でシェリフに「ホールドアップ」させられた。
遊軍が創設されて「アジア経済」を取材した。面白かった。10年後に『日本がアジアで敗れる日』(文藝春秋社)として上梓されたが売れなかった。翌年にアジア通貨危機があったからだ。
農水クラブでは未曾有の米不足に直面した。忘れもしないのは「食管制度廃止」の番外を打った時だ。心臓がばくばくした。47ニュース創刊に立ち会ったのは嬉しいことだった。
故郷高知の空から共同の行く末を見守りたい。(77年入社 伴 武澄)