陸 羯南(くが・かつなん)
 明治二一(一八八八)年、新聞「日本」(当時は東京電報)を創設し、徳富蘇峰と並び称されたジャーナリスト。急性な欧化主義に反対し「国民主義」を提唱した。
 安政四(一八五七)年、弘前出身で、東奥義塾で学ぶ。東奥義塾は弘前藩の藩校、稽古館の精神を引き継いで設立され、開校当初から漢学と英語を重視、多くの逸材を生み出した。その後、宮城師範学校や司法省法学校などに通うが持ち前の反骨精神が災いしてか相次いで退行処分に遭う。一時、政府に奉職するが辞めて、三宅雪嶺らとともに「日本」を発刊する。
 同じ郷里の山田良政が孫文の中国革命に殉じたのは、幼少時に菊地九郎の薫陶をうけ、長じては向かい家に住む陸羯南に影響され、日本および日本人に対する問題意識を中国の列強からの解放と自立に求めたからでもあった。
一方で新聞「日本」に文芸欄を設けて、正岡子規の俳人デビューを支えたことは特筆される。子規は、東大を中退した後に、新聞「日本」の記者として採用され、俳句革新の拠点とし、後に雑誌「ホトトギス」を創刊する。
新聞「日本」は東京神田の洋館に産声を上げ、陸が社長と主筆とを兼ねた。谷干城、近衛篤麿らが側面から支援したとされる。社説は陸が担当し、論説は三宅雪嶺や福本日南が書くなど当時でも硬派の新聞として知られた。
初期の論説陣には昭和天皇に帝王学を進講した杉浦重剛がおり、後に朝日新聞の「天声人語」を担当する長谷川如是閑らも新聞「日本」を支えた重要な人材だった。
明治日本が欧化主義から、アジア重視へと転換する転換期に名声を高めた新聞であったが、薩長による藩閥政治に反対したため、新聞停止法により、頻繁に発行禁止処分にされた。
 新聞「日本」は陸が病に倒れてから人手に渡ったが、三浦雪嶺らによる「日本及日本人」に継承された。
 ちなみに東亜同文会の機関紙となった「東亜時論」を最近復刻させた高木宏治氏によれば、『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎さんが生前、「陸羯南と新聞『日本』の研究をやろう」と提案していたことがあったという。明治を代表する言論紙を作り上げ、アジアを動かした人物の一人として評価され、司馬さんを魅了するほどの明治人だったということだろうか。