賀川豊彦賞を授けたい二人目の人物と最近出会った。2002年から6年間にわたりカブールで戦災孤児救済を続けた生井隆明さんだ。頭部に弾丸が残ったままの少女ファチマちゃんが日本で摘出手術を受けたというニュースは記憶にあると思う。その少女を奇跡的に発見して日本に連れてきたのが生井さんだった。
 生井さんは、東京都文京区で長くストレス・セラピーを営んできた。独学で精神医学やストレス医学を身に着けて開業。阪神淡路大震災では被災者のストレス障害ケアのボランティアを務め、台湾大震災でも被災者のためにスタッフを派遣した。
 2001年10月、アメリカによるアフガニスタン空爆が始まると、いても立ってもいられなくなり、翌月にはパキスタンの難民キャンプに足を運んだ。目の当たりにしたのは、親を空爆でなくした子どもたちの悲惨な姿だった。普通に親をなくすだけでも大変なストレスとなる。そこにいた子どもたちは目の前で親を殺された子どもたちだった。
 生井さんは2002年4月、NPO(アジア戦災孤児救済=AWOA)を立ち上げ、5月にはカブールでストレス・クリニックを開設した。
「無謀といえば無謀です。イスラマバードから一席空いていたチャーター機に乗り込んだのです。運よく臨時政府のNPO長官と接触がとれて人づてにスタッフを増やしていきました。親を失った子どもたちは群れをつくってカブールを目指していました。アフガンで孤児のことをヤティームといいます。そのヤティームたちは田舎では食べられないので何百キロも歩いてくるのです」
「最初、街角ごとにプラカードを立てて目につくようにしました。カブールにやってきた孤児たちをわれわれのクリニックに来てもらうためでした。いい女医さんの協力を得ることができました。すぐに私がパダル(お父さん)とよばれ、、彼女がマダル(お母さん)と呼ばれるようになりました。親代わりがまず必要だったのです。ヤティームたちは精神的にも肉体的にも大変なストレスの固まりなのですが、抱き締めてあげることが一番重要なことなのです。ぬくもりでしょうかクリニックでお世話をしたのは5000人ですが、往診も含めると3万5000人ぐらいになりましょうか」
「私の仕事はヤティームたちのストレスを取り除くことですが、自立の道も模索しました。農場をつくり、鶏を飼いました。卵を売れば現金収入になります。卵を産まなくなれば鶏は高値で売れます。職業訓練を兼ねた事業です。カブール大学の医学部と接触して、学生たちにストレスセラピーを覚えさせるプログラムも提供しました。これは大ヒットでした。現地の日本大使館から2-3億円の申し出があったことが、大学側を刺激したのです」
「問題は命の危険でした。外出時にはいつもガードマンに付き添ってもらう必要がありました。寝る時には枕元にカラシニコフがありました。片時も心が休まらないのです。治安は日に日に悪化して、大統領府から撤退要請がありました。街のモスクの長老たちが守ってやるというので1年間はがんばりましたが、2007年に現地スタッフに事業を委ねる決断をしました。しかし私の後任者はその1年後にマザリシャリフで爆殺され、事業すべてを断念することになりました。無念でしたが、私自身の精神状態も限界にきていたのです」
「お金ですか? 5000万円ほど使いました。私と家内の蓄えと支援者からの借金です。さっき話した外務省からの申し出は使っていません」
 アメリカは来年、アフガニスタンから撤退すると明言している。生井さんが心配しているのは子どもたちのことだ。アフガンは復興に向けて各国からの経済協力があるだろうが、戦災孤児にまでは手が回らない。というより国連にさえ孤児を救済するようなプログラムはないという。なんとか2年前まで続けた事業を再開したいというのが、生井さんの強い意思だ。
 生井さんを突き動かすものは何なのか。孤児たちが強いストレスに悩まされるだけではない。戦場での子どもたちは誘拐の対象でもあるそうだ。ほっておくとそのままさらわれて兵士に育てられるケースはカンボジアでもアフリカでもありふれた光景だった。これをアフガンで繰り返させたくない。
 賀川豊彦は生前、「日本にスラムがなくなったらどうするのか」という質問にこう答えていたそうだ。「そうなったら中国の子どもたちを救い、アジアの子どもたちを救いたい」と。(伴 武澄)