think kagawa (4)-第三の道
2003年1月、エース交易の機関紙『情報交差点』に「EUの理念の一つとなった友愛経済の発想―キリスト教伝道者・賀川豊彦―」という文章を書いたことがあります。ヒントはその前の年の純基さんとの会話にあったのはいうまでもありません。直感的に書いた文章が今も古臭くないのです。
賀川豊彦が欧州連合(EU)誕生と関わりがあるといえば驚く向きも少なくないと思う。『死線を越えて』というベストセラー作家として知られ、貧民救済に生涯をかけたキリスト教伝道者というのが賀川豊彦という人物の一般的理解だからだ。
世田谷区上北沢の松沢教会にある賀川豊彦記念・松沢資料館で、EC(当時)のエミリオ・コロンボ議長(イタリア元首相)が日本にやってきた時、EC日本代表部が発行した1978年のニューズレターを目にした。「競争経済は、国際経済の協調と協力という英知を伴ってこそ、賀川豊彦が提唱したBrotherhood Economics(友愛経済)への方向に進むことができる」とECの理念への賀川哲学の関与が述べられていた。
憎しみを乗り越えたシューマン・プラン
EUの歴史は1951年、戦勝国のフランスのシューマン外相が占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した「シューマン・プラン」に始まる。この提案がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約の締結につながり、後のECの母胎になったことは周知の事実であるが、「復讐や憎しみは次の復讐しか生まない」というシューマン哲学はどうやら戦前に賀川豊彦がジュネーブで提唱したBrotherhood Economicsに源を発するようなのである。
このBrotherhood Economicsは賀川豊彦が1936年、アメリカのロチェスター神学校からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、同年、スイスのジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学でも同じ内容で講演された。
「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、第三の道としてイギリスのロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。
賀川が特に強調したのは「近代の戦争は主に経済的原因より発生する」という視点だった。国際連盟条約が死文化した背景に「少数国が自国の利益のために世界を引きずった」からだと戦勝国側を批判し、国際平和構築のための協同互恵による「局地的経済会議」開催を提唱した。これは今でいう自由貿易協定にあたるのではないかと思う。
その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界に宗教改革(Reformation)をもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhood Economicsこそは資本主義と社会主義を止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだ。
この講演内容はまず英文でニューヨークのハーパー社から出版され話題となり、わずか3年の間にヨーロッパ、アメリカ、中国など25カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウス??世の序文が付記されたという。
貧困救済から世界平和へ
『死線を越えて』という小説は大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込み、キリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。
賀川豊彦はキリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、一方でコープこうべを始めとする日本での生活協同組合運動の生みの親となった。戦後は内閣参与となり、アメリカのシカゴから始まった世界連邦論運動を平凡社の下中弥三郎らとともに強力に推し進め、1951年には原爆被災地の広島で世界連邦アジア会議を開いた。この会議の精神はアジアの指導者の多くの支持を得て、1955年のバンドン・アジア・アフリカ会議に継承された。
彼が単なるキリスト教伝道者でなかった背景には、徳島と神戸で回船事業を経営していた父親の血を受けたとする説もある。興味深いのは神戸の貧民窟に住み込んで「天国屋料理店」「無料宿泊所」「授産施設」「子供預所」「資本無利子貸与」「葬礼部」など次々と事業を考えたことである。互助互恵の精神で衣食住から学校、職場、貸金、葬儀までを自前で経営しようとしたのである。長男の賀川純基氏が作製した「賀川豊彦関係事業展開図」によると、賀川が関係した事業でその後発展したものには「コープこうべ」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」「中ノ郷信組」「中野総合病院」など幅広い分野にまたがっている。
賀川哲学が貧困救済を基礎にしているのは、戦争も社会不安も経済的不平等に端を発していると考えたからであった。本来、宗教は魂の救済を求めるものなのだが、あえて宗教の枠を超えたところに賀川豊彦の真価がある。経済活動にまでその手を伸ばしたのは貧しい人々の自立のためであり、労働運動に手を染めたのも働く人々のまっとうな権利を回復するためであった。
再浮上する協同組合的発想
賀川豊彦が現代的意味を持つのは、やはり2001年9月の同時多発テロからである。90年代以降、アメリカの一国主義のもとで進んだ国際的な政治対立や貧富の格差拡大にどのように対処していけばいいのか。「仲間」であるか「敵」であるかを鮮明にすることを求めるアメリカに対して、ヨーロッパを中心にオルターナティブ的発想の重要性が唱えられており、互恵互助や協同組合的工作といった発想が再び求められているからなのである。
昨年4月、賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市に賀川豊彦記念館ができた。記念館は世田谷区上北沢、墨田区本所、神戸市中央区吾妻通と4カ所になった。しかし賀川豊彦に対する関心はまだキリスト教伝道者としての貧民救済の域を出ていない。
賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。人文から科学まで幅広い見識を持ち、いまでいえば経済・社会のトータルプランナーだった。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。
1954年、賀川豊彦が協同組合の中心思想として掲げた「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」という言葉は人類がまだ追い求めていかなければならない理念ではないかと思う。
ワシントンDCのジョージタウンにあるワシントン・カテドラルという英国教会の教会に、日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれている。
時代が呼んだ賀川豊彦
EUといえば、リヒャエル・クーデンホーフ・カレルギー(1894-1972)に登壇してもらわなくてはなりません。父親はオーストリアの外交官ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。外交官として明治期の東京に駐在しました。そこで青山光子を見初めて妻としました。リヒャエルは二人の二男として東京で生まれ、栄次郎という日本名もありました。
クーデンホーフ家の領地は現在のチェコのボヘミアにありました。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、そこで育ったリヒャエルが第一大戦後に「反ヨーロッパ主義」を唱えたのです。ヨーロッパ統合はリヒャエルに始まします。だからEUの父とも呼ばれているのです。
光子はその後、フランスの化粧品会社ゲランの香水「ミツコ」の名前として残っています。名前が残るぐらいヨーロッパの宮廷政治に名前を遺した人物だったはずです。何がいいたいのかといえば、EUを生んだ4分の1は光子の息子のリヒャエルであり、賀川豊彦の協同組合思想も4分の1ぐらい貢献していたと考えると、EUの震源地の半分は日本にあったと考えられるということなのです。
賀川の見直しが少しずつ始まるのは、2008年9月のリーマン・ブラザーズ・ショックからです。あっという間に金融危機が世界をめぐり多くの国で実体経済が大きく落ち込みました。多くの識者が「資本主義の暴走」を口にし始めたのです。日本では小林喜多二の『蟹工船』が思いかけずブームとなり、『死線を越えて』など賀川豊彦の著書の復刻が相次いでいます。「貧困」や「搾取」という言葉まで復活し、「小泉構造改革」が「貧困」をもたらしたとの政治フレーズがメディアを賑わしました。
われわれが賀川豊彦献身100年記念事業を始めるにあたって、奇しくも資本主義が暴走した結果がもたらされてしまったのです。格差社会です。「今なぜ賀川豊彦なのか」ということすら説明する必要がなくなってしまったのです。先進国で資本主義の限界説が語られるようになりました。新聞紙面でも「ソーシャルビジネス」や「社会的起業」といった賀川的発想が掲載されるようになっています。ソーシャルビジネスはバングラデシュのムハマド・ユヌス氏が数年前から同国で始めた救貧事業です。資本主義社会に利潤はつきものですが、見返りのない投資を求める運動を展開しています。
不思議なことに、そんな発想に食い付く事業家がフランスにいるのです。ダノン・グループを率いるフランク・リブーです。バングラデシュにユヌス氏のグラミン銀行と合弁でグラミン・ダノンを設立し、1個8円のヨーグルト「シャクティ」を売り出し、それが売れて工場増設にまで到っています。
2010年1月3日の日本経済新聞の企業面の企画記事「欧州発 新思想」ではそんな状況を「従来型の企業の社会貢献ではない。ダノンはシャクティを通じて最貧国での事業ノウハウを獲得し、新興国ビジネスに役立てる。さらに時がたてば、最貧国も新興国の仲間入りをする」と驚きとともに紹介しています。
同じ日経の同月5日投資欄のコラム「一目均衡」では小平龍四郎編集員が「社会起業」についてこう書いています。
「ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは昨年来、社会起業をテーマに議論を交わしている。短期の収益を求める金融資本主義は自壊した。代替するパラダイムは何か。慈善とビジネスを両立させようとする社会企業家が、重要な役割を担うかもしれない、という問題意識だ」
「一昨年からの金融危機。資本市場を舞台にした活動を通じて何ができるかを。世界は問い直す。社会起業や慈善など、市場の外にあると思われた倫理への競うような接近は、そうした自問への答えの一つ。社会的責任投資も同じ文脈に置ける」
これらの記事を読んで、20年以上に三洋電機の井植敏社長が言っていたことを思い出しました。
「南ベトナムが”解放”される前、われわれはホーチミン郊外にラジオ工場を経営していた。革命後は政府に接収されたが、ドイモイが始まって再びベトナムに行ってみるとその工場がしっかりと運営されていて驚いた、というより感動した。事業は資本のためにあるのではない。社会のためにあるのだということを深く思い知らされた」
そんな話だったと記憶しています。なるほど大経営者は考えることが違うと感心したのでした。
資本主義の代弁者だった日経新聞の記者たちが新たなパラダイムに着目していることは重要です。天国の賀川先生も喜んでいるに違いありません。資本主義が曲がり角を迎えるこの時代に触覚のよさを発揮していると思います。
賀川豊彦松沢資料館の杉浦秀典学芸員は言います。
「経済問題だけでなく、地球温暖化や異常気象など環境の問題にも直面せざるをえなくなっている。これからはお金も、仕事も、環境も、分かち合いの精神でないと立ちゆかない、みんな、どこかで感じているからではないでしょうか」