空中征服 環境問題と市政請負制
 賀川豊彦の小説『空中征服』は2004年に読みました。大正11(1922)年に大阪日報に連載したものを同年12月に改造社から出版。出版した月だけでも11版を重ねました。『死線を越えて』がベストセラーになった2年後ですから、評判を呼んで当然だったのかもしれません。2009年5月、不二出版から5回目の復刻版が出ました。
 『空中征服』を再び手にして、この本はひょっとしたら『死線を越えて』より評判になるかもしれないと思いました。80年前、東洋のマンチェスターと呼ばれるほど工場が密集した大阪を舞台に賀川豊彦が市長になりさまざまな改革を実行する物語です。
 当時の大阪の空は青空がみえないほど煙突からの煤煙に覆われていました。その煤煙を一掃したいというのが賀川市長の公約でした。工場主である資本家との激突があり、市職員のサボタージュがあり、ついには女たちが出てきて賀川市長に協力するのです。
 大阪の人々の協力を得られず失職した賀川市長は空中都市の建設を夢見ます。そこには人間改造機械によって、精神をあらためられた人々だけが送り込まれます。そして風船によって空中に支えられた楽園である田園都市が突如、出現します。
 復刻版に解説を寄せた神戸文学館の義根益美学芸員は「賀川豊彦がみた『空中征服』の夢に、多くの人々が笑い、そして何かを得ただろうと思います。痛烈な皮肉だと、受け止めた人もいたと思います。大正時代当時の人々と、私たちは随分異なった社会に生きていますが、人間社会の根底をなすものは大きく変わらないことがわかる1冊です。『空中征服』の世界を通じて、私たちが生きている社会というものを見つめ直す機会になれば幸いです」と書いている。
 この『空中征服』は、主人公が川の中の生き物と会話をしたり、空中都市が生まれたりするなど奇想天外、荒唐無稽に物語が進みます。その点では涙や感動を誘う賀川文学とは軌を一にしていません。大阪の工場から排出する煤煙による大気汚染が限界を超えていたことに業を煮やした賀川豊彦市長が突然、煙筒廃止方針を打ち出し市議会を巻き込んだドタバタ劇が展開します。
 公害という言葉さえない時代に大気汚染防止の必要性を指摘した先駆性は大したものですが、それよりも興味深いのは大正末期の日本で賀川豊彦扮する大阪市長が公務員事務の請負制を考え出し、それを実施に移すことです。「官から民へ」という鳩山民主党のスローガンにぴったり符合するのです。
 小説の中では、アメリカですでに「市政事務引受会社」というものがあることを紹介しています。80年前の話です。はたして本当にあったかどうか分かりませんが、発想が実に現代的なのです。

 以下、『空中征服』の内容の一部を転載します。
 市長が綱紀粛正を宣言すると同時に、第一反対の声を挙げたものは土木課であった。土木課は実に妙なところで月賦払いの最上等の洋服を着るもののもっとも多いところである。
 賀川市長の「サボタージュ性繁忙」に対する整理に反対するものは、ただに土木課の一部のみではなかった。ほとんど市庁舎の吏員全部であった。云うところは「いままでの通りの方がやりやすい」と云う簡単な理由である。
 賀川市長としては、市の行政に新機軸を出したいのである。
 彼の望むところは、市の凡ての執務事項を請負制度にして、土木、衛生、庶務、戸籍、学務、社会、会計、都市計画等の諸課を執務吏員に入札させて、競争の札を入れ、執務能率に応じて能率賞与を与える利率を定めることであった。
 米国では既に市政事務引受会社があることだから、日本でも事務引受の会社があっても善さそうなものだとも、賀川市長は考えたのである。
 市長は断然、市吏員の執務行程の大改革を発表した。そして、いままでの全課長を辞退せしめて、新たに能率請負の入札を各課に命令した。
 サア、大変だ。各課は上を下への大動乱だ。総辞職を主張するものもあれば、全吏員のゼネラル・ストライキを宣伝して回るものもある。そうかと思うと、賀川市長に辞職勧告に行こうと云うものもある。気の早いものは市参事会員のところへ駆けつけるものもある。市会議員を訪問するものもある。まるで蜂の巣をつついた様な結果になって了った。

 こういう結果になると云うことは彼もよく知って居た。それで平気で居た。彼は自棄を起こして帰った戸籍係の手伝いでもしようかと思ったが、それも出来ないし、あれしようか、これしようかと一人で悶えて、反って自分が神経衰弱に懸かって居ると云うことに気がついた。それは蝸牛性的思想病革命的神経衰弱とでも名をつく可き性質のものであって、仕事は運ばず、神経だけ尖ぎって、何かしら革命的に行きたい病気である。
 賀川市長は大阪市職員を全員やめさせて、婦人を中心にした”民営化”によって効率化した市行政は市民の絶賛を浴びるのですが、市議会や元市職員の陰謀で最後は失職させられます。そんな顛末です。多くの読者は市政の請け負いなど荒唐無稽と考えるでしょうが、オイルショック後の日本で導入した自治体があることが分かりました。
 調べてみると、愛知県高浜市は1975年のオイルショックを契機に窓口業務など行政サービスを外部委託に踏み切り、職員は10年前の256人から191人に削減。2003年度では、市の人件費を3億6800万円節約しています。外部委託先は「市総合サービス株式会社」。正社員と臨時職併せて256人を雇用しており、平均年齢は54歳。中高齢者の格好の就労の場ともなっていました。やればできるのです。
 環境問題を予見し、公務員が社会改革の足を引っ張るという命題は、非常に先見性があります。賀川の小説で『死線を超えて』や『一粒の麦』など協同組合をテーマとしてものは多く翻訳されて海外でも評判となりましたが、残念ながらこの『空中征服』は翻訳されていません。万が一、翻訳されていれば、ある意味で社会主義の将来を見通したジョージ・オーウエルの『1984年』に匹敵する評価を得ていたかもしれません。いずれにせよ、スラムに住みながら、こうした社会問題についてまで頭を悩ませていた賀川豊彦だったのです。