「土木技術資料」という雑誌の3月号に巻頭言を書かせてもらった。広井勇の名前はあまり知られていない。新渡戸稲造、内村鑑三とともに札幌農学校二期生の三羽がらすといわれ、日本の土木工学の礎を築いた人物である。弟子の青山士は内村鑑三に影響を受け、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した時、新潟県北蒲原郡木崎村で小作争議を指導していた賀川豊彦と親交があったといわれている。(伴 武澄)
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 明治日本の土木技術の先駆者を一人挙げよと問われれば、誰もがクリスチャンの広井勇の名を挙げるだろう。
 公共事業といえば、八ツ場ダムにみるように談合や無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアたちは日本という国家を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランド・デザインを描いた。現在の豊かさはそうした先人たちの労苦に負うところが少なくないのだと思っている。
 広井は札幌農学校の二期生として新渡戸稲造、内村鑑三とともに三羽がらすといわれた。アメリカ、ドイツで学び、小樽港の工事によって広井の名を全国に知らしめた。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。中でもコンクリートの強度について100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新工法も多く編み出した。
 当時の土木工事の多くはお雇い外国人に依存していた。小樽港の工事は北海道開発の拠点として不可欠な事業だった。日本人による初めての計画、設計の仕事だったことは特筆されてよい。
 その後東京帝国大学に招かれ、土木工学の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかった。官学の農学校にプロテスタントの精神が流れていたことは今から考えると不思議なことだが、おかげで戦前の日本は「清きエンジニア」を持つことができた。
 広井は多くの土木工事を指揮しただけでない。門下に多くの有能な弟子たちを輩出した。青山士、八田與一、久保田豊という三人の国際的な土木エンジニアが相次いで巣立っていた。
 青山士はアメリカに渡り、パナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名をとどろかせた。アメリカで起きた日本人排斥運動の煽りで運河の完成を前に帰国を余儀なくされた。帰国後は、荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造に携わった。
 八田與一は、台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し、不毛の地とされていた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。戦前の日本人として唯一、銅像が保存され、命日の5月8日にはいまも故人をしのんで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも恩人として紹介されている。
 久保田豊は、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時として世界最大規模の水豊ダムを建設した。70万キロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝両国に送電され、産業のインフラとして不可欠な存在となっている。戦後はアジア・アフリカで多くのダム建設に携わるなど途上国での開発事業のリーダーとなった。大連育ちの中国人の友人は「学校の電灯を照らす電気は鴨緑江の水豊ダムから届けられると習った」となつかしむ。
 土木は本来、経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものであった。広井とその弟子たちに共通しているのは、国際的広い視野と開発の中心にヒューマニズムを据えた事業哲学が流れていることである。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は国境や民族を越えて人々の生活を支えている。
 司馬遼太郎の『坂上の雲』がドラマ化されて、国民の共感を得ている。明治を創りあげたのは政治家や軍人たちばかりではない。小中学校の教科書にもっと多くの理工系の人たちが紹介されるべきだと最近考え始めている。