大宅壮一の賀川豊彦素描
2010年1月28日 加山久夫
一 はじめに
大宅壮一(一九〇〇[明治三三]年~一九七〇[昭和四五]年)は大正から昭和にかけて、ことに戦後日本において、多面的な評論活動を展開し、広く社会的インパクトを与えたジャーナリストであった。「駅弁大学」、「一億総白痴化」、「「太陽族」、「恐妻」、「虚業家」、「口コミ」、「ミニコミ」、「緑の待合」等々、大衆の耳目をとらえる造語を次々と製造し、時代の現象を実に的確に表現して、風刺したり警告したりする才能にかけては、他の追随を許さなかった。「マスコミの帝王」と呼ばれたゆえんである。大宅の没後に設立された大宅壮一文庫は賀川豊彦記念松沢資料館から徒歩一五分ほどの、世田谷区八幡山にあり、マスコミ関係資料の一大センターとして、多くの利用者が訪ねている。
大宅壮一が社会評論とともに、幅広く手がけたのは人物評論である。政界、財界、学界、思想、芸能、ジャーナリズムなど、生涯に取りあげ、料理した人物の数はゆうに百人を下らないのではないか。大宅壮一を編集責任者として昭和八年三月に創刊された月刊誌『人物評論』(人物評論社)において、「人間、人間、凡そ人間に関するものでありさえすれば、僕は何にでも興味をもち、関心を有し、魅力を感ずるものである。僕のこれまでの仕事も、九○パーセントまでは、直接または間接の人物評論であったといっても、あえて過言ではない。」(「創刊の辞」より)とさえ述べている(一九九六年、不二出版より復刻)。大宅壮一の連載対談『人物料理』(『週刊文春』昭和四〇~四五年)に収められた人物だけで田中角栄、宇都宮徳馬、福田赳夫、宮沢喜一、黒川紀章、司馬遼太郎、三島由紀夫、吉永小百合など五二人を数える(『大宅壮一全集』蒼洋社、昭和五七年、一五巻)。自らの妻大宅昌についても、「野次馬評論家を圧倒。〝猛妻賢母〟」として同書で紹介している。大宅壮一の評論は毒舌で知られたが、その人物評論にはユーモアや暖かさも見られる。しかし、偽善や権威主義にたいしては容赦なく批判し、パロディ化した。多くの知識人たちがそうであったように、彼も社会主義、ことにマルクス主義に共感してきたが、戦時下や戦後に多くの知識人たちが時代に迎合して転向・再転向してゆくのを見て、戦後、特定の思想やイデオロギーに立つことを拒否する「無思想人宣言」(昭和三一年)を発表している(『「無思想人」宣言』講談社、昭和五九年)。「その後私は、いかなる主義主張にも同調しなかった。私は私流に生きていくほかはないと考えた。終戦直後、民主主義と共産主義の大ブームがこの国に訪れた。私にそのほうの実績が多少ないでもないので、多くの〝進歩的〟な思想団体から参加を勧誘された。だが私はどこにも属さないで、戦時中からの農耕生活を戦後もずっとつづけていた。」(同書一二〇頁)
戦時下、多くの文化人が戦争協力にかり出されたように、彼もまた、満州やジャワなどに出かけているが、帰国後、一九四四年から一九四八年ごろまでの数年間、八幡山で農業を営みつつ、思索を深めていった。
賀川豊彦は、戦時下、社会主義思想や反戦思想のかどで危険人物とされたが(一九四〇年八月、渋谷憲兵隊に拘引、巣鴨拘置所に留置。一九四四年五月、神戸相生橋署に留置。同年一一月、東京憲兵隊本部にて取り調べ。)、彼もまた、政府当局からの要請により、数回にわたり講演のため中国を訪ねるとともに、満州基督教開拓村設立のための指導的役割をはたしている。東京憲兵隊本部での取調べ以降、宗教的社会的活動は著しく制限され、「宇宙目的論」の執筆などに集中するのであるが、このような状況にあっても、戦時救済委員会委員長や恩賜財団戦災救援会参与など、社会的実践家としての仕事にも携わっている。そして、敗戦とともに、賀川豊彦は終戦処理内閣であった東久邇内閣の参与として、キリスト教伝道者として、あるいは、社会運動家として、大車輪の活動を展開したことは周知のとおりである。
大宅壮一は少年時代に賀川豊彦と出会い、彼からキリスト教の洗礼を受けている。彼はしかし、『「無思想人」宣言』において、知識人の「帽子」としての思想を捨てるとともに、宗教についても、「無宗教で生きていくつもりである」と宣言し、つぎのように述べている―「宗教の力、信仰の熱度とともに、イントレラント(非寛容)な性格は原則として高められていくものである。それを抑えていくことが〝共存〟の必須条件である。だが、他宗他派に対して極度にトレラント(寛容)な宗教は、もはや宗教でなくなっている場合が多い。そこで〝共存〟のための最上の条件は、宗教そのものをすてることだということにもなるわけだ。」(一三一頁)
では、大宅壮一は、いったい賀川豊彦をどう観ていたのであろうか。興味のあるところである。両者は近隣に住み、終生互いに交流があったようであるが、賀川が大宅をどう見ていたのかについては、これまでのところ記録は見出されていない。しかし、大宅が賀川について書いたものはいくつか残されているので、それらを本稿で紹介することにしたい。
二 賀川豊彦との出会い
少年時代の大宅壮一については、幸い、大正四年七月二七日から大正七年一一月一三日までの日記が残されており、『大宅壮一日記』(中央公論社、昭和四六年)(『大宅壮一全集』二九巻、三〇巻)として刊行されている。大宅壮一は尋常高等小学校を経て大阪府立茨木中学校に入学しているので、級友たちより二歳年長であった。日記は中学一年生(一五歳)から四年生(一八歳)までのものであり、大宅が生涯において書き残した唯一の日記であるという。それは全生徒が義務づけられていた日記であり、担任教師が毎月目をとおし、コメントを付して返却している。したがって、心理的抵抗や自己規制が働いていたにちがいないが、大宅少年はその割には、日常生活のあれやこれや自らの思いをかなり自由に書き記している。父の代で家運が傾いてきた醤油醸造業や農業などの家業を懸命に手伝いながら、学業をつづけている日々の様子、しかも、その多忙な中で、少年雑誌に作文を投稿し、入賞の常連として少年文壇の雄となることに喜びを感じる壮一少年の姿が見られる。同じ中学の二級上の先輩には川端康成少年もいたが、彼の方はなかなか入賞することができなかったという。
『日本の近代 猪瀬直樹著作集3・マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』(小学館、二〇〇二年)は若き日の川端康成と大宅壮一を実に興味深く活写している。『大宅壮一日記』には青地晨による解説「大宅壮一の原点」が収められており、そこには「賀川豊彦との出会い」という項が掲げられている。これらの資料をとおして、賀川豊彦との出会いについて瞥見することにしょう。
日記では、大宅壮一は多感な少年の眼で人間や社会について鋭く観察している。特に中学四年生になってからの大宅の心境は大きく変化する。大正六年一月一日の日記にはこう書きしるしている―
「愈々十八才の春が来た。僕も少年期を脱して青年期に入った。我儘な、横着な、浮薄な、自覚のない、根底の弱い自己を旧い年と共に捨てて僕は此に新しい自己を建設した。又今まであまりに投書、英語に全力を注いでいたが今年からは英語、国漢、数学の三方に力を等分するつもりだ。僕はもう優等生になろうという心を捨てた。今は人から軽ぜられていてもかまわない。いつかは僕の裏面に於ける勉強を現す時が来るのだろう。」
「裏面に於ける勉強」とはなにであったのか。
保守的な校風の茨木中学ではあったが、大宅壮一を理解し、大宅自身も信頼していた多門力蔵という担任教師がいたが、この先生とも衝突を繰り返すようになった。人間や社会についての見方や考え方の相違のゆえであった。その背後に賀川豊彦がいた、と猪瀬直樹は指摘する。(『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』一九四頁参照。)青地晨も同様の指摘をし、つぎのような大宅壮一自身の文章を紹介している―「……或る日その町(注、茨木)の教会に一風変った男が講演にきた。二〇歳を少し出たばかりの青年がいうことが普通の牧師の説教とちがって社会性があり、強い迫力をもっていた。講演がすんでから、私は彼に会っていろいろ話をした。何でも神戸の貧民窟に住んで、そのあたりの貧しい人たちやならずものを相手に伝道をしているとのことだった。私は近くそこへ訪ねて行くことを約束した。」(大宅壮一『レジスタンス派中学生』。『大宅壮一日記』四六二頁より引用。)これは中学二年生の頃のことであり、その後、彼はたびたび神戸のスラム街に賀川を訪ねて、キリスト教人道主義や社会主義の影響を強くうけていったのである。大宅壮一はこうしたことを日記に書いていないが、それは一般に「危険なもの」とされていた状況下での自己規制であったと思われる。青地晨がつぎのように述べるとおりである―
中学二年の大宅が賀川との出会いを一行も日誌に書いていないのは、賀川の人物や思想が茨木中学の忠君愛国教育に受け入れられないことを、本能的に嗅ぎとっていたからに相違ない。
今日からみれば、賀川豊彦の思想は、もちろんなまぬるい。それはせいぜいキリスト教的社会主義の域を出ていない。三高時代の大宅は、マルクス主義に傾斜して、すでに賀川を乗り越えていた。しかし壮一が初めて賀川を知った大正五、六年の時点では、賀川の思想は、明らかに〝危険思想〟であった。それが田舎中学生の目に、どれほど新鮮で、衝撃的で、光り輝くものにみえたかは、私たちの想像以上だったに相違ない。(『大宅壮一日記』四六三頁)
大宅壮一はすでに中学一年生の時の日記に、一銭銅貨を握り、「明日、母があと一銭を返しにくるから」と言って、空き瓶に醤油をもとめるボロ衣を身にまとった七歳の少女に涙したことや、孤児院のために筆をかってくれと、孤児を食いものにする一見紳士風の男に怒りを感じたことなどを書いている。つまり、大宅には早くから、神戸のスラムで伝道・奉仕を実践する賀川に共感する基盤があったのである。
国家主義や民族主義への批判や宮中「お歌会」の勅題歌を「皆老人の玩具」と呼ぶなど、壮一の日記は次第に「危険思想」になり、あわや退学となるが、「一札」入れることで一旦は収まっていた。しかし、大正七年八月、神戸・大阪にも波及した米騒動の現場を見、これについて小学校同窓会で演説をしたことが引き金となって、彼は茨木中学を退学することになった。この後、彼は徳島中学で専検を受けて合格し、三高に入学した。この後も、大宅は引き続き賀川のもとを訪ねている。
まだ賀川は変わり者の牧師と見られていたぐらいで世間的な意味での名声はない。家族地獄から抜け出す隘路を賀川は示している。大宅はもうひとつの家族の一員となった。ここではただ無償で奉仕すればよかった。
賀川は貧民街の一燈にすぎない。手記「鳩の真似」は「死線を越えて」のタイトルで『改造』に連載され、単行本となって売れはじめ、川崎造船所の争議で一躍、時の人になっていく。大宅は、メディアによって有名人が誕生するまでを、つぶさに観察する位置にいた。貧しい牧師が、大金を手にするまでのプロセスで、出版界のマーケットの深い魔力に感じ入った。
大宅は三高で弁論部に所属して目立った。賀川のところへ出入りしている、川崎造船所の争議では本部と前線の間を行ったり来たりしながら情勢を判断して報告する伝令をやっていた、と学生仲間には知られていた。(猪瀬直樹『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』一九七頁)
中学生の大宅壮一が京大生であった水谷長三郎とともに神戸新川の長屋の教会で賀川から洗礼を受けたのは大正八年、大宅一八歳のときのことであった。その後、彼はボランティアとして賀川に協力するのであるが、ある日の出来事についてこうしるされている。
「大宅は、ある夜、賀川の部屋の押入れで疲れて泥のように寝ていた。深夜になって、もの音に気づいてふと目覚めた。隙間から覗くと、賀川が裸電球の下で一心不乱になって指をなめながら札束を数えていた。貧乏な青年が、眼の前で今日の五、六億円にあたる現金を見たら目眩がするに違いない。大宅は『改造』に連載される前の「鳩の真似」を読んでいた。あのくしゃくしゃ原稿が眼前の大金に化けたのか……。大宅はキリスト教よりこの事実に刺激された。」(猪瀬直樹、前掲書、一九四頁)
「キリスト教よりこの事実に刺激された」かどうか、分からない。しかし、大宅壮一の驚きは想像に難くない。だからと言って、大隈秀夫のように、「賀川が指をなめて札束を数えている姿をかいま見て宗教のもつ欺まん性を感じる」(『大宅壮一を読む』時事通信社、昭和五九年、一五七頁)といった解釈は、賀川のみならず、著者の師大宅壮一にたいしても不適切なものであるといわねばならない。賀川はこの後、その生涯において、莫大な印税や寄付などを得るが、右から左に、多くの団体や個人に送り、さまざまの社会活動を支援しつづけたのである。その労苦は、実際には、ハル夫人が背後で担うことになるのであるが。後述するように、大宅自身、このことをよく知っていた。
もっとも、大宅は社会的関心を持ち続けるが、キリスト教から離れてゆく。大宅の三高時代の友人であり、終生賀川のよき協力者となった村島帰之はこう述べている―「大宅の思想的ハシカ熱がさめるよりももっと早く、キリスト信仰もいつのまにか蒸発していた。大宅の言葉を借りるとイエス・キリストからノー・キリストへの転向である。従って賀川からも次第に離れて行った。賀川はいつか冗談に『大宅君から洗礼の水を返してもらわねばならん』といったと伝え聞いて、大宅は『そのうち、バケツに一ぱい返しに行きます』と語ったという。しかし、洗礼の水を返すといっても、賀川の頭からバケツの水をぶっかけるような反逆者ではない。現に〝マスコミ読本〟の漫画にあるように、もろもろの教祖や既成宗教家たちの尻をまくって、現実暴露をやっている彼であるが、ひとり賀川豊彦論だけは遠慮がちに書いている。」(村島帰之『新聞社会事業と人物評論』村島帰之著作選集 第五巻、柏書房、二〇〇五年、三三八頁)
三高を卒業して東大社会学科に進んだ大宅は二一歳のとき結婚するが、阿倍野教会での結婚式には賀川も出席しており、上京に際して、何かのときには訪ねるようにと、賀川の従兄新居格への紹介状を大宅のために書いている。
大正一二年九月一日に発生した関東大震災は賀川と大宅を再び近づけることになる。大宅は東京での新婚家庭の財政を支えるために、岩倉鉄道学校の非常勤講師として働いていたが、地震のため職を失った。そこで、大宅は中央労働紹介所で救援物資を運ぶ仕事を見つけ、働くことになる。ある日のこと、「埠頭で汗だらけになって救援物資をトラックに積む仕事をした。荷台に乗って目的地まで行き、今度はそこで荷物を降ろすのだ。本所深川辺りを走っていると早くもキリスト教会の救援テント村ができていた。髪をオールバックにした黒縁メガネの男があれこれと指図している。近づいてみると賀川豊彦ではないか。その用意周到さに、大宅は驚嘆した。」(猪瀬直樹『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』二六六頁) 大宅は、大震災の直前に帰阪した際、神戸に賀川を訪ねたばかりであった。
こうして、活動拠点を東京に移した賀川は上北沢の住人となり、後に、大宅は近隣の八幡山に住むことになる。賀川の森の家に昭和二五年末から三〇年まで住んだ磯部浩二氏によれば、賀川宅を訪ねる大宅を時々見かけたということである。賀川豊彦は昭和三五年に没したので、大宅は少年時代から賀川の晩年まで親しい人間的交流をもったのであった。
三 木崎村事件
大正時代には、大正七年の米騒動と相前後して小作農民の自覚も高揚し、小作争議が全国的に頻発するようになった。大正六年に八五件、七年二五六件、八年三二六件、九年四〇八件であったが、一〇年には一六八〇件にも及んだ。新潟県木崎村に起った小作争議はそれらの一つではあったが、多くの知識人の関心を呼び、参加を促す事件となったことで、農村社会運動史に銘記されるべきものとなる。その中心的リーダーに大宅壮一と賀川豊彦がいた。木崎村事件について、大宅壮一の報告があるので、少し長くなるが引用することにしよう―
この事件は、大正一二年に端を発したもので、当時木崎村七箇字の小作人が、封建時代の悪風である「込米」の廃止を要求したのに対し、新潟県地主会長眞島桂次郎は、翌一三年二月、耕作禁止の仮処分を約六十町歩にわたって申請した。ところで、この「込米」というのは何かというに、徳川時代に農民が米を上納する際、悪代官たちは、たとえ桝にほんの少し欠けても重い刑罰を課して却下するので、それを恐れた農民たちは、規定よりも一割から二割の米を余分に入れておくのが慣例になっていた。新潟県は封建性の強い土地だから、その慣例がその頃まだ踏襲されていた。
農地改革の断行された今日では、こういった二重搾取が法律で正当と認められるなどということは考えられない。しかし当時の裁判所は、地主の申請した耕作禁止の仮処分に対し、一回の口頭弁論をも開くことなくして、ただちに許可を与えた。そのために木崎の農民組合長は、切腹して残雪を血に染めるという凄惨な事件が起り、世論がゴウゴウと沸き立った。さすがに裁判所もこれには困って、その仮処分は弁論によらないで引き下げるよう斡旋し、土地は一応小作人の手にもどった。しかし訴訟はそのまま継続した。
その後法廷の弁論は二〇回近くも開かれ、実地検証も三回行われた結果、四月一四日結審し、小作人側の敗訴となり、事件は東京控訴院に移されることになった。それと同時に地主は、耕地引き上げの仮執行を申請したが、小作人側は、事件を合法的に解決するため、控訴院に仮執行停止の申請をした。
しかし現地では、地主側は警官数百人の応援のもとに、即刻仮執行にとりかかった。そこへ、控訴院で仮執行停止を聴許したという電報がとどいた。しかるに地主側は、それは指令の本書ではないという理由で、急遽仮執行を強行して、これを完了した。問題の土地はすべて「立入禁止」の札が立てられた。
小作人たちは、これを傍観しているわけにいかなかった。土地を取り上げられることは生活を奪われることである。たとえ後に第二審で勝って、土地がかれらの手にもどったとしても、先祖代々耕してきた土地が荒廃に帰するのは、見るに耐えなかった。そこで、この仮執行を阻止しようとしたが、そのために三〇余 名の農民は、公務執行妨害、騒擾の名のもとに捕えられて投獄された。六八戸、四五〇人の小作人が生活の基礎を失った。
それは五月五日のことで、ただちに日本農民組合新潟県連合会木崎支部に争議団本部をおき、各地から応援者が続々とのりこみ、連日連夜、演説会や家族大会が開かれた。争議資金をつくるために行商隊が組織された。小作人の女房たちは、地主の家につめかけて坐りこみ戦術をとった。木崎村全村の学童約千名のうち被害小作人の子弟七百余名は、一名も登校するものがなくなった。木崎村四校のうち二校は完全に休校し、他の二校もほとんど授業停止の状態に陥った。
もちろん全国の新聞は、この事件を大きくあつかった。一般の世論は、小作人側に味方し、封建時代そのままの搾取をつづけようとする地主の態度を難じた。ちょうど日本にはじめて普通選挙法が公布され、労働農民党が結成された直後で、一般大衆、とくに知識層の間には進歩的な気運が漲っていた。
この木崎村の争議をはじめから指導していたのは、三宅正一(現社会党代議士)、稲村隆一(現社会党代議士順三の兄)の両君であるが、この人たちは私の古い仲間である。かれらは上京するとさっそく私のところへやってきて、小作人の子弟だけの小学校をつくる計画について相談をもちかけた。もちろん私は、できるだけのことはしようと約束した。(「木崎村事件の思い出」『地上』家の光協会、昭和二六年三月号、四七頁。大宅壮一「木崎村暴動事件」『文藝春秋臨時増刊』一九五五年八月五日号、三宅正一『幾山河を越えて』恒文社、昭和四二年、一一二~一四七頁を参照。)
大宅はさっそく新潮社に『農民小説集』を出してくれるよう交渉し、その印税を支援金とすることにした。芥川龍之介、菊池寛、小川未明ら全文壇的に二〇篇の作品を提供してもらい出版した。大宅はこれを「民主人民戦線」と呼んでいる。しかし、初版三千部で得た印税は五八〇円程度であったので、さらに、新潮社から借金した。このことについて大宅壮一はこう記している―「そこで関係者一同相談の上、新潮社から三、四千圓ばかり借り出すことになった。といって、無条件、無担保で借りられるものではない。結局、当時、『死線を越えて』その他出るもの、出るものベストセラーとなっていた賀川豊彦氏の全集を担保にするということで、建築用材を仕入れるのに必要な金を借り出すことができた。」(「木崎村暴動事件」三四頁)
賀川豊彦はこの頃眼病が悪化して入院していたが、彼も、「身辺雑記」(大正一五年六月)にそのことについて記している―
「私は病院に寝てゐる中に新潟の無産小学校の校長にせられて居りました。吃驚して農民組合の関東出張所に聞いて見ると、矢張りそれは本当でした。六八戸の小作人が、土地を追はれたので、何百かの小作人が耕地を分け合って耕して居ります。その結果僅か一戸に対して二段歩しか残りません。小作料としては落度なく払って来たのですが、当前(あてまえ)と言って、俵のまだ不完全な時に俵から落ちる米を補ふ為に持って行った、僅か一俵に対して一升五合位の米を払はないと言って、土地を取り上げられたのです。それで女佐倉宗五郎の連中が、上京して産業青年会に泊まり込む様になりました。余り気の毒ですから私も到々、小説家加藤武雄氏の紹介で、新潮社から三千円の金を借りて来て、新潟に無産小学校を立てることにしたのです。三千円の中、半分位は小説家諸君が出して呉れる農民小説集と、論客が書いてくれる農村問題論文集で埋めようと思ひますが、後は私の個人保証で新潮社の佐藤氏が借して呉れました。私が借金をして社会運動をやるのは之れが初めてです。」(『賀川豊彦全集』二四巻、六二頁) 大宅は『農民小説集』のほか、『農村問題十二講』を支援プロジェクトとして企画している。
因みに、数年後と思われるが、これらとは別に、大宅は「長篇小説全集」(新潮社刊)を企画し、賀川豊彦に次のような寄稿の依頼状を送達している―
謹啓
その後ご無沙汰していますがお変わりありませんか。扨「農村問題十二講」の原稿についてお問合わせがあり、その節木立氏の方へお返事しておきましたが、あれはやっと近頃原稿が揃って印刷所へ廻したばかりなので、申し訳がありませんでした。
扨突然ですが、今度新潮社から「長篇小説全集」といふのが出ることになって、正月の中頃から大々的に宣伝するとのことですが、それについて先生の「偶像の支配する処」を加へて戴きたいのです。やはり円本で値段も体裁もずっとよくなるので少なくとも十万位の読者はとれる予定です。内容はやはり読んで興味ある長篇ばかりで、菊池、久米、里見氏等から、藤村、春夫等の藝術小説家や、中村武羅夫、加藤武雄、三上於兎吉氏等の通俗作家や、沖野氏や先生などをも加へることになり、既に先生を除く人達からすべて承諾を得てあるのです。先生のは「死線を越えて」の方は「改造」で離すまいと思ひますから、昨年お約束した「偶像」を加へて戴きたいのです。そして先生のは半冊の予定ですから、若しそれだけで足りないとすれば、何かもう一篇附加へて、約八百枚位にして戴ければ好都合です。それが出来なければ一篇だけでも結構です。実は先日中根支配人が大阪へ行って先生の後を追かけ廻したのですが、どうしてもお目にかかれずに帰京したので、私が代わって……伺ふことになりました。奥様によろしく。
賀川先生 大宅壮一
この書簡(賀川豊彦記念松沢資料館所蔵)には日付はないが、『偶像の支配する処』は一九二九(昭和三)年六月一日、新潮社から出版されている。冒頭に「『農村問題十二講』の原稿が揃って印刷所に廻した」とあるが、上記「木崎村事件の思い出」では、「もう一つの『農村問題十二講』の方はついに実現しなかった。」と述べられている。
大宅壮一は『農村小説集』の出版計画が一段落したところで木村毅、富士辰馬と共に新潟に向かい、木崎村内外で講演活動をし、現地の人々を励ました。長行寺を臨時校舎としていた農民小学校は日常的に官憲によるさまざまの妨害を受けながらも使命感と情熱にあふれたボランティア教師たちによって教育活動が展開された。安部磯雄、大山郁夫、杉山元治郎、大宅壮一らが教員あるいは講師として名を連ねている。
大正一五年七月二五日、木崎農民小学校は完成し、記念式典には一万二千もの人々が集まったという。しかし、県は文部省の指導のもとにこれを無許可の学校であるとして認可せず、解散を命じた。こうして、日本農民組合新潟縣連合会本部は「木崎小学校児童盟休解除に対する声明書」を出し、農民小学校の解散を余儀なくされた。結局、それに代わるものとして、「新潟高等農民学校」が一五年一〇月一日より新校舎において開校されることになった。
これに先立ち、同年六月一五日、長行寺において農民小学校および農民学校の開校式が二千人の出席者をもって開催され、午後には、杉山元治郎、大宅壮一らによる講演会が行われた。賀川豊彦は病気のため出席できず、賀川校長の挨拶は代読された。今日、この文章にアクセスすることは困難であるので、本稿の主題と直接関わるものではないが、全文を紹介しておきたい。
「新設無産農民學校に寄す」 賀川豊彦
諸君、私は、是非盛大なる無産小学校、並に高等農民學校の開校式に、列席したいと思ってゐたのでありますが、どうもまだ、私の眼病が治りきらない為に、止むを得ず、缺席させて頂くことになりました。
さて、此度は此地に設けられました無産小學校と、高等農民學校の計画は、日本に於て始めての大規模のものであります。之は新潟縣農民諸君の大なる自覚と、幹部諸君の目覚しい活動によって、生れ出たることは事実でありますけれども、それと共に私は日本に於ける新しき時代のしるしを、この無産階級の教育運動の中に、発見せざるを得ないのであります。
第一、日本の農村に於ける村税の八割から九割までは、凡そ小學校の費用に費やされて居るとのことであります。それ程我國の農村に於ける義務教育は、発達してゐるに拘わらず、我國の農民は日一日と生活が苦しくなって来てゐるのであります。今日迄の農村に於ける教育は、農村を愛する為には、何等役立って来て居りません。凡手の教科書は都会むきにつくられて、農村向きには作られて居りません。たとへ農村向きに作られたとしても、地主の子供には向くかも知れませんが、小作人の子供に向く様な教育は、今日まで與へられて居ないのであります。小作人の生活が改善せられ、その子弟等が進んで、農事改良に従事する様な教育は、今日まで殆ど日本に於いては閑却されて来たのであります。
小作人の子弟等を充分教育しようと思へば、先づ小作人の生活の安定を計らねばなりません。然るに日本の小作人は、日一日、地主の圧迫を受けて、殆ど日本人としての態度を保つ事が出来ない程になって来たのであります。
例へば、新潟縣木崎村の如きに於いては、六十八戸の小作人が、全部耕地を奪はれて、幾百年来耕し来たった土地と別れを告げて、都会の失業者の如く、農村の失業者として、野良犬の如き生活に、甘んぜねばならぬ様になりました。此の様な事は、日本始まって以来始めてのことであって、佐倉宗五郎の時でも、堀田の殿様は、こんな無茶をしなかったのであります。
既に生活を怯(おびやか)された小作人が、どうして其子供を學校に送る事が出来ませうか。義務教育と云ふ以上、義務に服すべき人間の生活を保証すべき事が、含まれて居ります。英國の如きは義務教育を受ける児童の生活を保証して居ります。一九一二年(今から一四年前)英國グラスゴーに於いて、小學児童食費公給制が設けられて以来、義務教育を受くる児童にして、生活の安定を失った家庭の児童は、必ず後援団体が、その食費を全部賄はねばならぬと云ふことに決まったのであります。日本に於いても、この事が第五十議会に於いて、政府が問題にしようとした事がありました。
學問と云ふものは腹が減って居ては勉強が出来ぬものでありまして、多くの統計によりましても、栄養の悪い子供達は、成績が一般に悪いんであります。況や、木崎村の如く耕地より逐放せられたる小作人の子供等は、義務教育に服させても、食べる物を食べてゐないから、勉強するわけにはいかないのであります。若しも強いて、義務教育に服せしめるならば、政府直ちに地主に向かって、土地立入禁止の解除を命じ、先づ小作人の生活の安定を計るべき義務が當然であります。
然らずして無理に、義務教育に服させ様とする事は、義務教育を要求して権利を無視する、片手落ちの仕打ちであると考へねばなりませぬ。
我々は、耕地を奪ひ去られたる無産農民の為に、ここに止むを得ず、独立したる私塾を開いて、失業したる小作人の子弟の為に新しい教育の運動を始めざるを得なくなったのであります。六八戸の農民を逐放したる横暴なる地主は、今や郡教育長としておさまり、天下に模範的な教育をなして居ります。そして、逐放せられたる小作人達は、不忠者、罪人、情宣を辨へざる者として、罵られて居ます。然し、天下はよく事の黒白を辨じて呉れるでありませう。新潟縣の正義は、日本の正義と余程差があると見へます。東京に於いて若しも、木崎村に於ける横暴なる地主の如き者を、教育会会長に選挙した場合にどうでありませうか。私は多く云ひません。良民を苦しめ、多数の生産者のパンを奪ふ、暴虐者を中心とする教育家の群に、我々はこの愛する日本の子弟等を任せて置くことは出来ません。× [狼]の教育は我々の教育ではありません。我々は×に食はれる羔(こひつじ)であります。羔の群は、羔の教育をすればよいのであります。其處に、×の教育と羔の教育は、分離せねばならぬ理由があります。更に私は、無産農民の教育の内容に就いても、大いに考へる處があります。今日、日本に於ける乙種農業學校の修業課程と、研究科目は、眞に農業に従事する農民の子弟達の必要を、満さないからであります。
農民と云へども、経済的にその生活の安定の保証を、與へられるならば、決して農村を離れることをしないのであります。然るに今日、乙種農業學校に入學せんとする生徒達は、地主の子供でなければ、通學の出来ない様な制度になって居り、その研究科目も、地主の子供でなければ、必要のない様な、學問を教へられるのであります。其處で我々はどうしても、小作人中心の農民學校を造って、労作に従事しつゝも尚勉強出来るような農業學校の必要を、考へて居るのであります。その為には、夏の間は、農業に従事して、雪のちらつく頃から、雪が解ける頃まで、農業學校に入學する事も、一つの方法でありませう。また、その研究科目も今迄の様に、地主の子供だけに向く様なものを勉強しないで、小作人に向く様な學科を、勉強させればよいと思ふのであります。
勿論私は、小作人に向く様な學校を造り度いと云った處で、決して年百年中、小作争議の戦術を研究する學校を造ると云ふのではありません。我々は飽くまでも、人道的に、二宮尊徳の精神を、現代に生かしたような気持ちで行き度いのであります。二宮尊徳が、大正の今日に生きてゐるならば、恐らくは私の云ふような事を、云ったでありませう。彼が生きてゐるならば、六八軒の小作人を逐放した、眞島某を教育会会長にいただく、新潟縣北蒲原郡の郡教育会を何と云ふでありませう。恐らくは、必ずや、彼は我々の無産農民小學校の挙に賛同して、その職員の一人として、働いてくれるでありませう。
此度の我々の挙は、その根底に於いて、人道的であり、飽くまでも、愛国的精神より離れるものではありません。しかし×の群は、種々(いろいろ)なことを流布しませう。それは彼等のなすが儘に為(さ)せておけばよいのです。我々は飽くまでも、天下の公道に従ひ、正義人道の大旗をかざして、無産者の解放の道に進めば、足るのであります。
茲に私は、簡単に自分の所信を披瀝(ひ れき)して無産者農民學校の開校式に、列席し得なかった責を塞ぎたいと思ふのであります。(『反響』一巻第五号 大正一五年八月、一~四頁)
無産農民小学校は、すでに述べたように、公権力の圧力により開校断念の止む無きに至った。そもそも当初から高い障壁が予想されていたのではないか。無産農民小学校設立について、評価はいろいろあったに違いない。(『反響』の同号において、丸山重尭の論文「無産農民學校協会は其方針を変更せよ」は予想される財政的困難など、戦術上改善の余地があることを指摘している。)しかし、かくも多くの各界の人びとが一丸となって木崎村の小作農民の窮状に心を寄せ、盟休中の子どもたちのために、木崎農民小学校設立のために、一致協力したことは、近代日本の社会運動史のなかで決して忘れられてはならない、ひとつの事件であったと思う。(合田新介『木崎農民小学校の人びと』思想の科学社、一九七九年、青木恵一郎『日本教育外史 木崎村農民運動史』同朋社、一九七七年参照)大宅壮一と賀川豊彦は共に、その運動に深く共鳴し、指導的な役割を果たした同志であった。
四 大宅壮一の賀川豊彦像
戦後における賀川豊彦と大宅壮一の活動には実に目覚しいものがあった。賀川はいわば時流にものって戦災復興運動、生協運動の再建、平和運動、キリスト教伝道活動等々、大車輪の活躍を展開した。大宅壮一はそのような賀川豊彦をどのように見ていたのであろうか。大宅壮一が執筆した賀川豊彦論や賀川についての記述を以下に紹介することにしよう。
(一) 「世界人・賀川豊彦の秘密」(『文藝春秋 増刊』昭和二六年四月二五日号)
不肖の弟子二人
今から三十何年か前のことである。
教会―といっても、ただ貧民窟の中のあばら屋に少し手を加えた程度で、見すぼらしい姿をした人々が三、四〇人、木のベンチに腰かけているだけだ。
その中から学生服をきた二人の若者が前に出て、牧師―といっても、よれよれの服をきた貧相な青年の手によって、型通りの洗礼をうけた。その学生の一人で丸まっちい赤ら顔をしたのが、後の商工大臣水谷長三郎で、もう一人の紅顔にして純真な美少年が、ありし日の私自身である。そしてその青年牧師は、最近の「リーダーズ・ダイジェスト」で「彼の生涯はアッシジのフランシスのように数奇をきわめ、聖パウロのように波乱に富んだもの」として紹介されている賀川豊彦である。
現在の水谷にしても私にしても、およそイエス・キリストとは縁のない存在で、いわばイエスでなくてノー・キリストの典型である。恐らく主イエスさまの眼からみれば「迷える羊」どころか、実際はその羊を喰う狼で、救いがたい異端者かもしれない。しかし私たちの過去には、殊勝な心がけで神の御前にひざまずいた時代があった、というよりも日本の思想運動、社会運動の或る時期には、私たちのようなものでさえも、その中にまきこまずにはおかなかった、強い大きな流れがあった。そしてその流れの中で主役を演じ、最大の影響力をもっていたのが賀川豊彦である。その後時代の移り変わりと共に、かれの演ずる役割の質も変わってきているが、戦後かれはまた「時の主役」として世人の前に大きくクローズ・アップされてきた。
先だって私は水谷に会ったとき、どちらからともなく、「どうだ二人でバケツに水を入れて賀川先生のところへ返しに行こうじゃないか」ということに話はまとまったのであるが、それはまだ実現していない。水谷も私も神に背いてすでに久しい。せっかく頂いたお水ではあるが、この際お返しをするようなつもりで、かつての恩師である賀川豊彦をあげつらうための筆をとった次第である。
アメリカにあるカガワ・ストリート
アメリカのどこかの新聞で、日本人の人気投票をしたとすれば、戦前においても戦後においても、トップはもちろん賀川豊彦であるばかりでなく、二位との間にたいへんな開きが生じるのではあるまいか。その点で吉田ワンマン首相などは問題にならぬだろうと消息通はいっている。アメリカにおける対日感情の変化にともなって多少の変動はあるにしても、アメリカにおけるかれの人気は、内地にいてはちょっと想像もつかないものらしい。ガンジーなどと共に東洋の代表的聖者の中に数えられ、かれの生涯や事業を紹介した著書は、何十種といって出ているということだ。賀川豊彦という一日本人の存在が、アメリカ人の眼にどう映じているか、私が直接間接耳にして覚えていることだけをひろってみても、ざっとつぎの通りである。
賀川はすでに何回となくアメリカに行っているが、かれがアメリカでもっとも歓迎され、また最大の影響を与えたのは、昭和十年の第四回目の渡米であろう。
それはアメリカで基督教と社会運動を結びつけた先駆者といわれるラウゼンブッシュ[注記ラウシェンブッシュ]博士の記念講座からの招待という事になっていたが、アメリカの国務省、各州知事、その他公共団体が、賀川の協同組合運動の理論と経験について学ぼうというのだから、全く国賓待遇であった。その前に賀川の「死線を越えて」「一粒の麦」等が訳されて広く読まれていた。
まず桑港について上陸の際、かれのトラホームが検疫医に引っかかって危く上陸禁止になりそうになった。サンフランシスコ市長は狼狽して、直ちにワシントンの労働長官に打電するやら、大統領の特別許可をえるために特使が飛行機で派遣されるやらで、大騒ぎの結果、人に会ったら握手の代りに自分の両手を握りあわせるということで許された。
かくてかれは全米各地を講演して歩いたが、ボストンでは、新聞は「小さいけれど大物の賀川が来た」という大見出しをかかげた。オハイオ州のクリーブランドでは、賀川が入場すると全聴衆が起立してかれを迎えた。こんなことは、国旗掲揚の場合を除いては、あまり前例のないことだという。
昭和六年の第三回渡米の際は、まずカナダのトロントで講演したが、その聴衆の中にはカナダの総理大臣までが加わり、翌日の新聞は「トロント始まって以来のセンセーションを起こした」と報じた。
ロスアンゼルスの近くには、カガワ・ストリートというものができていた。
戦後湯川博士を教授に迎えているプリンストン大学は、昔賀川の学んだところであるが、教室にも寄宿舎にも「賀川の室」が記念として保存されている。
バークレーの賀川豊彦後援会長をしているハンター博士は、プリンストン時代の賀川の同級生であるが、晩餐に招待された賀川がその家に行くと、夫人は眠っている愛嬢をゆり起こしていった。「この方と今日握手して頂いたことを一生忘れるのではありませんよ。」
戦前アメリカの大学では「賀川研究」という講座がいくつかあって、これを卒業論文のテーマに選ぶものも、一時は毎年何十人も出た。そして中にはそのために日本へ留学して、直接賀川の教えを乞い、かれの事業を研究するものも何人かいた。A・C・クヌーテンの「日本社会史より見たる賀川豊彦」[邦訳『解放の預言者』]というのは邦訳も出ているが、この論文はカリフォルニア大学[注記 南カリフォルニア大学]に提出して博士号を授けられたものである。
戦時中アメリカの日本向け放送で「連合軍が勝利の暁には、賀川は総理大臣となってアメリカに協力するであろう」といったのは、日本人にはあまりピンと来なかったが、アメリカにおけるかれの人気というものをたいていの日本人は知らないからである。かように賀川の認識において、賀川を生んだ日本と、かれを大きく評価しているアメリカとの間には、大きな喰いちがいがあるのである。
この喰いちがいは、いったいどこから生れたのであろうか。それを追求することは、日本人自身と日本文明そのものを、アメリカとの比較においてもっとよく理解する道でもあるわけだ。
妾腹の子
賀川の父純一は養子で、磯部柳五郎というものの三男に生まれた。磯部家は徳川一一代将軍の頃からつづいている大きなつくり酒屋だが、柳五郎は「一貫」という通称が示しているように、非常に意志の強い豪腹な男で、明治維新前後に米相場に手を出して巨利を博した。その長男為吉は、父の性格をうけついで、政界にのり出し、土佐の立志社と対立する阿波の政治結社自助社の代表として高知県会議長にもなり、徳島県を土佐から分離することに成功した。
一方賀川家は一九ヶ村の大庄屋で、幕末時代の当主盛平は商才に富み、藍玉の仲買をして財を築いた。その長女みちの養子に迎えられたのが豊彦の父純一である。
純一は、家事を養父に委せて、生家の長兄為吉と共にもっぱら国事に奔走した。明治八年には上京して旧藩主蜂須賀茂韶の邸に寄寓した。茂韶はかれの才を認めて、しきりにイギリス留学をすすめたが、養父盛平がこれを許さなかった。
若き日の純一が家を外に国事に奔走していた頃、たまたま宴会の席で益栄という芸者を見染めた。かの女の本名は萱生かめというだけで、その姻戚関係はわかっていない。しかし非常に気品のある清楚な美人で、この種の女としては珍しい教養とすぐれた才能をもっていたというから、いずれは維新の変革で没落した当時の斜陽族の娘が、身分を秘して左褄をとるにいたったものであろう。
二人の間には、明治六年に長男端一が生れ、一二年に長女栄が生まれてまもなく亡くなった後[注記 昭和六年没]、長い間隔をおいて、二一年七月一〇日に豊彦が生れた。故郷の大麻比古神社の祭神豊受大神にちなんで豊彦と名づけ、たいへん可愛がられた。
豊彦の性格を形成する上に重要な役割を演じた因子として見逃してはならないのは、かれが妾腹の子だということである。
しかし豊彦が四歳のときに父が亡くなった。そしてそれから二ヵ月もたたぬうちに、実母がまた突然亡くなった。賀川回漕店は、一九歳の長男端一が相続し、豊彦は阿波の賀川家に引きとられた。
賀川家は界隈きっての分限者であったが、純一は長い間ほとんどよりつかず、かれの正妻がその母と共に家を守っていた。豊彦にとっては、いずれも血のつながりのない間柄である。それでも祖母の方は、かれを可愛がってくれた。しかし義母はひどいヒステリーで、かれにはことごとくつらくあたった。さらに家から一歩外へ出れば「妾の子」として近所の悪童連にいじめられねばならなかった。
手つづき上の手ちがいで小学校に一年早く入学した豊彦は、成績抜群で、神童とまでいわれた。祖母は祖父や父の話をして、幼いかれを大いに激励した。
こういった環境に育った多感な少年によくあるように、かれの場合もはやくから自己表現慾が芽を出した。巌谷小波の影響で、この地方の伝説を童話風にまとめたりした。絵も上手で、教科書の買えない貧しい友人のために、挿絵まで入れて見事な写本をつくってやった。
三三年、一二歳の豊彦は、県立徳島中学校に入学した。一年おくれて新居格、電気工学の鳥養利三郎、外務省情報部長で鳴らした天羽英二などが入学した。新居の父は豊彦の父の弟で、この地方で有名な漢方医新居文二の後をついだものだ。したがって格は豊彦の従弟にあたる。
私自身も、実は妙な関係からこの徳島中学出身ということになっている。というのは、私は少年時代から賀川の家に出入りし、その影響のもとに「危険思想」のかどにより大阪の府立中学を追われた。徴兵の関係で中学修了の資格が必要となり、検定試験を受けようとすると、どこでも願書に市町村長の「操行証明書」なるものを添付しなければならなかった。私の不良ぶりはあまりにも有名で、到底それを手に入れる見込みはなかった。たまたま徳島中学からとりよせた規則書に「操行証明書」の一項が脱落していたので、そこをねらってうまうまと成功したわけだ。この試験で合格者は私一人だったが、それでもちゃんと「卒業式」みたいなものをしてくれた。このチャンスを逸したら、その後の私の生涯はどう変わっていたかわからない。
余談はさておいて、賀川家は端一の無謀な企業慾と放埓極まる生活がたたって、次第に左前となり豊彦の授業料も下宿代も滞りがちになった。豊彦は身を切る思いで、兄の泊まっている芸者屋へ再三足を運んだ。そしてついに破産の日がきた。
その前からかれは、アメリカの宣教師マヤス博士のもとに、聖書の講義を聞きに通っていた。いま、頼るべき一切のものを失ったかれは、青ざめた顔、泣きはらした瞼で、博士を訪れた。博士はかれを両手で抱かんばかりにして慰め、励ました。やがてこの少年の瞳は希望に輝いた。その日からかれは精神的にのみならず経済的にも、博士によって救われたのである。
賀川を導いた人たち
毀誉褒貶は別としてとにかく今では世界的存在となっている「賀川豊彦」を今日あらしめる上に、もっとも大きな感化を与えまたその原動力となったものは、日本人よりもむしろアメリカ人であり、日本文化よりはむしろアメリカ文化である。その中でも直接個人的にかれを援助し、指導したのが、前にのべたマヤス博士とその義兄にあたるローガン博士である。
マヤス博士は、オランダ系のアメリカ人で、ニューヨークの初代市長は同家から出たという。その故郷であるヴァージニア州レキシントンには、同家を記念するために「マヤス・ストリート」までできているくらいの名家だ。博士の父は、大きな金物商だが、自分で出資して東洋伝道に宣教師を送ったのである。
ローガン博士も、日本の伝道にその全生涯をささげた人である。かれはケンタッキー州の生れで、父はミズリー州の判事だった。
この二人が、賀川豊彦の事実上の両親であるともいえよう。肉親的にも精神的にも孤児となり、財政的にも見すてられた豊彦は、かれらの手に拾い上げられて、半ばアメリカ人として成長したのである。日本の腐敗した封建的環境の中で芽ばえたこの新しい芽が、健康なアメリカの台木の上に接木されたのである。賀川がその生涯において、精神的にも財政的にも破綻を来たしたときに、いつも無条件に救いの手をさしのべたのは、この二人である。
明治三八年、中学を了えた豊彦は、明治学院に入学した。今でこそ神学校などというと、一部特殊な人間の入学するところになっているが、当時の日本では、日本の封建的な桎梏から解放されたいと思う進取的な、野心的な青年の多くは、ミッション・スクールの門をくぐった。
明治学院はヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士らの創立したもので、東洋一といわれた立派な校舎があった。中でも図書館は素晴しいもので、ギッシリつまった万巻の書の前に立って、知識慾に燃えた豊彦は、一日に一冊ずつ読みあげて行こうと決意し、それを実行した。歩きながらも、食事をしながらも、本を読み、入浴中にも本をはなさなかったくらいだ。
その後かれは神戸の神学校に移った。そして明治四二年一二月二四日即ちクリスマス・イーヴに、葺合新川の貧民窟に居を移して伝道生活に入ったのである。その前にかれは胸を患って幾度か生死の境をさまようたが、たまたまジョン・ウエスレーの伝記を読み、ウエスレーが肺を病みながらも驚くべき大事業をなしとげたことに、いたく感激したのがその動機である。
かれの借りた家は、前年の暮に殺人があって、まだ血痕が壁に残っていた。そのために日家賃七銭月ぎめにすると二円だった。そこでかれは酔っぱらいや、ならずものに絶えずおびやかされながら、文字通りに無抵抗で、伝道をつづけて行った。その中からかれの代表的著作たる「貧民心理の研究」が生れた。
大正三年、丁度第一次世界大戦が始まった頃、かれはアメリカへの留学を思い立った。奨学金をもらってプリンストン大学に入ったが、神学校の課程を了えて、バチェラー・オヴ・ディヴィニティの称号をもらうと共にそれも絶えた。いろいろとアルバイトの口を探して歩いたが、当時のアメリカは非常な不況で、なかなか見つからなかった。たまたま見つかっても、かれは読書に熱中のあまり戸締りを忘れたりして追い出された。
ついにかれは帰国の決意を固め、その旅費をかせぐために、ユタ州オグデンの日本人会書記に雇われた。そこの日本人はモルモン教徒と共に甜(てん)菜栽培の小作人をしていたが、両者の仲が悪いのにつけこんで、資本家は不当の搾取をした。そこで賀川は双方を説いて結束させ、ストライキを起こした。
この争議は、賀川の指導よろしきをえて勝利に終った。その結果、日本人側だけでも年に五万ドル以上の増収となった。そのときにもらった謝礼を旅費にしてかれは帰国したのであるが、この経験によってもっと大きな謝礼をえた。それは貧しい人々の解放は、教壇からキリストの愛を説くことだけではえられないということを体験によって悟ったことである。
企業家・賀川豊彦
賀川の中には企業家の血が流れていることは前にのべた。たくましいアメリカ人の生活を生活してきたかれは、日本の基督教者たちのやっていることに満足できなかった。
幸いかれには貧民窟という足場があった。その土地はかれの亡父が回漕店を開いて成功した神戸である。そこでかれも、神の名においてではあるが、つぎつぎに新しい事業に手をつけた。
最初に計画したのが「天国屋」という一膳飯屋である。実費で栄養食を供給することによって、病人ばかりではなく、健康で貧しい人々の生活を助けたいというのが動機であり、目的であった。
開店日には、二斗の飯が一時間半で売り切れた。天国屋は千客万来の大繁昌で、近所の貧民たちは大いに喜んだが、次第に食い逃げが多くなって、ついに三ヵ月で廃業した。これがなければ大いにもうかったし、またその損失を全体に割りつけることもできたのであるが、かれにはそれができなかった。
この天国屋は、その後かれが試みた幾百種の「事業」のモデル・ケースみたいなもので、成功も失敗もすべて同じ原因から発している。
ついで、匿名組合組織でブラシ工場をつくったが、貧民窟のおかみさんや娘たちに、毛植の内職をさせたところ、手垢で毛が真黒になり、商品にはならなくて、これまた失敗に終った。
こんどは「賀川服」というものをつくって売り出した。夏服は一着一円五〇銭、冬服はコール天で七円五〇銭で、これは大いに当った。その後賀川は、日本全国はもちろん海外旅行にもたいていこれを着て歩いた。
しかしかれがその天賦の能力を最大限に発揮するのは、大震災、大水害といったような天災地変が突如として起った場合である。大正十二年九月一日、関東大震災を伝えた新聞を手にすると同時に、かれは神戸のYMCAの有志を非常召集して対策を討議し、その日の午後には、早くも神戸出帆の山城丸に乗りこんでいた。
三日の夜横浜について、被害地を一周するとすぐ関西へ帰った。直ちにスケジュールを立てて全国を遊説し、あつめた金を続々東京へ送った。その金で難民のもっとも多い本所に産業青年会が建てられ、神戸からドクトル馬島僴一行を呼んで、無料診療その他の隣保事業を大仕掛に行う組織を立ちどころにつくった。
当時私は東大の学生で、アルバイトに岩倉鉄道学校の先生をしていたが、学校が焼けて失業したので、自由労働者になった。そして芝浦についた救援物資をトラックにつみ、その上乗りをして本所までくると、そこに賀川豊彦が立っているのを見て驚いた。ここの託児所には、今の社会党参議院議員赤松常子女史が保母として働いていた。
その後、昭和八年の三陸地方の大海嘯(しょう)、その翌年の関西地方の大水害の際などにも、賀川の出足は誰よりも早く、もっとも目覚ましい活躍ぶりを見せている。
労働組合、農民組合、協同組合等々に対する賀川の創意と熱意と努力は、何人の追随をも許さざるものである。特に日本の農民組合が、全国的な組織をもつにいたった過程において、賀川の功を逸することはできない。こんど大阪府知事に立候補した杉山元治郎は、この面における賀川の腕であり、代理人であるといえよう。さらに現在日本全国にある各種の協同組合にいたっては、ほとんど完全に賀川の創意とかれのつくった資金によってスタートしたものとみて差支えない。
こういう風に見てくると、賀川は新時代の河村瑞軒とも見られないことはない。またかれの人生の目的が金もうけにあったとすれば、投機家としてのかれは、その父や祖父よりも天才的で、昭和の紀伊国屋文左衛門になっていたかもしれない。
かれの手をつけた多くの事業が、その目のつけどころの正しさとスタートの華々しさにもかかわらず、総じて長つづきしないというのは、かれの血の中に潜在している才能と、かれの意図する殉教者精神との二重性、もしくはかれの気のつかないそのギャップからくるとはいえないであろうか。
口八丁手八丁的思想
賀川を悪くいうものは、かれを一種の浮気者だという。何にでも手出しをするからである。
かれには専門というものがない。かれの事業があらゆる面にわたっていると同様に、かれの関心と興味は学問、芸術のすべての分野にくまなく及んでいる。そのことは二百冊に達するかれの著作一覧表を見ればわかる。宗教、哲学、文学、美術、政治、経済等はもちろんのこと、生物、天文、物理、化学、考古学等々、自然科学の全分野に、かれほど広い知識をもっているものは、日本人の間には珍しい。かれの親しい友人は自然科学者の間に多い。
かれの自然に対する興味は、ごく幼い頃から芽を出していた。かれの生れた神戸の家は海辺にあったので、蟹を追うて深いところへ入って行って、危く死ぬところを店員に助けられたこともある。阿波での小学生時代にも、悲しい日々は川辺の葦のかげで蟹やタニシに話しかけ、淋しい夕方には桑の実を食べつつ小鳥に慰められたといっている。
後年プリンストン大学で入学試験をうけたとき「進化論に関する文献をあげてその梗概を記せ。」という問題が出た。賀川が答案を出すと、試験官はそれを見て驚嘆の声をあげ、ぐっと手を出して握手を求めた。それにはダーウィン、ラマルク以下四二冊の著書とその梗概が列記されていた。
入学後は、神学の課程は日本で一通り了えてきたので、実験心理学と数学を選んだ。二年目には、比較解剖学、古生物学、遺伝発生学等を専攻した。
後にかれがアメリカやヨーロッパの大学で講演に招かれたときは、必ずかれはそこの自然科学者と会い、その実験設備を見学するのを最大の楽しみとしていた。T・V・Aでは、委員長のモルガン博士の山小屋に泊って、この工事に関する専門的な話をしているし、カリフォルニア大学ではローレンス博士のサイクロトン実験(ママ)を、パサデナ大学ではミリカン博士の高圧実験所を熱心に見学している。特に動物、植物、化石などの珍しい標本のあるところでは、かれはその日の予定を忘れてしまうことが多い。
かれが天皇制の熱心な支持者だというので、左翼からしばしば攻撃をうけているが、自然科学を愛する点で、かれは天皇裕仁に特に個人的な親しみを強く感じているようだ。かれの天皇支持は決して政治的なものではない。私がまだ中学にいる頃、国語の時間に「教育勅語」の文法的な誤りを指摘したことが問題になった。私はこういう国が嫌になって、賀川のところへ行き、かれと天皇制について一晩議論したことがある。その際かれに説得されなかったら、私はもしかしたらテロリストの仲間に加わっていたかもしれない。
藤村に原稿を持ち込む
考えてみれば、賀川豊彦という存在も、要するに或る時代の日本の産物である。複雑な人的関係の網の目の中で、一つの有力な結び目としての役割を演じたのだ。これまでに、有名、無名の多くの人間が、かれに影響を与え、またかれの影響をうけた。かれの魅力にひきつけられて慕い寄ってきたものの中でも、やがて失望して去って行くものもあれば、いつまでもかれのもとにとどまっているものもある。失望するものの大部分は、かれら自身の頭の中で描いていた賀川と、現実の賀川とマッチしなかった、或はマッチしないことを発見したからである。いいかえれば、賀川から「神」を求めて、「人間」を見出したからである。しかし初めからかれも「人間」だと思ってかかれば、過度の崇拝も幻滅も起らない。
ここでは賀川をめぐる人間の流れの跡を簡単にたどってみることにしよう。
明治学院時代の学友には、沖野岩三郎、アナーキストになった加藤一夫、ダンテ研究の中山昌樹、ユーモア作家となった佐々木邦などがいた。この中では沖野が後に賀川を世間へ紹介する役目を果した。沖野が大正七年一一月の「雄弁」に書いた「日本基督教界の新人と其事業」というのがそれだ。
賀川といえばすぐ「死線を越えて」を連想するが、これはかれが神学校時代に血を喀いて、蒲郡の漁師の家で静養していた頃、つれづれのままに書いたものである。初めは「鳩の真似」と題し、古雑誌に毛筆で書いたというが、私が少年時代に貧民窟の押入れの中から引出して読んだのは、半紙にきれいに清書してあった。
かれがこの自伝風の処女作を書きあげて持ちこんだ先は島崎藤村であった。しかし藤村の態度はひどく冷淡であったと見えて、その頃の日記で賀川は「何も藤村のようにすましこんで『私は天下の小説家でござい。』というのが価値があるのではない。僕は藤村の後進者に対する礼を非常に失敬だと思った」と露骨に不満を爆発させている。
しかしとにかくかれは一応この原稿を藤村にあずけてから、木下尚江の家を訪ね、夫人に会って東京を去った。まもなく藤村の方から「これは、あなたの出世なさるまで、筐底(きょう てい)に秘めておきなさい。」という手紙と共に原稿が返送されてきた。いかにも藤村らしいやり方だが、先見の明があったともいえる。
これに反して徳冨蘆花は、賀川の「太陽を射るもの」を読んだ後で、巻末につぎの如く記している。
「此子可愛。嗣子とするに足る
大正十年十二月廿六日朝九時半
於恒春園 徳冨健次郎しるす」
その翌年、神戸の教会で賀川が説教していると、アメリカ移民のような姿の夫婦者が黙って入ってきて、それをきいていた。説教が終ると、賀川の方へ近づいてきた。
「僕の顔を覚えているか。」とブッキラボーにいった。またゆすりかと思って賀川はためらった。
「親の顔を知らぬものがあるか、親爺の顔をよく見ろ。」といって、大きな顔を差しよせてきて、賀川をベンチにおしつけた。黒眼鏡を外すと、それは蘆花だった。蘆花は笑って、呆気(あっけ)にとられている会堂の人たちに、賀川を指していった。
「この人はプリンスという中にも、クラウン・プリンスになるのですから、手荒いことをしました。」そしてかれは、子供に語るように、貧民窟から出ることを賀川にすすめた。
その頃賀川を中心に「イエスの友会」というのができたが、その会員中には、今の改進党の北村徳太郎、読売詩人、賞をもらった草野心平、婦人評論家の帯刀貞代等の名が見える。このコンビネーションが面白い。
大杉栄が魔子をつれて話しにきて、かれのところからファーブルの「昆虫記」を借りて帰ったのもその頃だ。その前に起った川崎造船所の歴史的な大争議に、賀川が赤で縁どった白布に「参謀」と記した襷をかけて指揮した姿は今も私の頭に残っているが、その取締りのために東京からわざわざやってきた憲兵司令部副官に甘粕正彦中尉がいたというのも、後から考えると妙なめぐり合せである。
女に対する潔癖さ
最後に、人間賀川豊彦を語ることによってこの稿を了えたいと思うが、それはすでにのべたことで十分で、これ以上蛇足を加える必要がないくらいだ。
売名家、衒学者、煽動者、薄っぺらな男、調子のいい野郎、投機師、耶蘇教を看板にした大山師等々、これまでかれに対して投げつけられた悪口は、一々ここであげきれない。そして私は今それについて弁解しようとは思わない。というのは、これらの悪口の中には、かれの或る一面をついていると見られるものも含んでいるからだ。日本人、特にアカデミックな傾向をもった日本の知識人に嫌われるのは、かれの身辺からふんだんに発散する実利主義のなせるワザである。かれが平川唯一の場合と一脈相通ずる点が有るにしても、平川と賀川の根本的な相違を見逃してはならない。
「カムカム放送」その他によって平川は高額所得者となり、その金を有利に動かして大いに利殖しているというが、その何百倍もの金をかせいだ賀川は、今だに素寒貧で、何の蓄えもない。かれがこれまでアメリカからもって帰ってきたドルの総額は、驚くべき巨額に達しているが、それは残らずかれの「事業」に投資された。
しかもその「事業」は、かれのいわゆる「浮気心」を満足させたという点もあるが、何等かの形で日本の貧しい人々の生活をうるおしてきたのである。
そればかりではない。「死線を越えて」を始め二百冊に達するかれの著作の稿料、印税、翻訳権等による収入も莫大なものである。これまた全部労働組合、農民組合、協同組合、その他の社会事業施設の創立費、人件費として投じられてきたのである。或る時期の日本社会運動全体が「賀川資金」によって賄われたことがあるといっても過言ではない。日本における鉱山労働運動史上に大きな足跡をのこした浅原健三なども、初めは月々賀川から手当をうけていたのだ。日本の古い社会運動家で、今では賀川と反対の陣営に立って、盛んに賀川に悪罵を放っているものの間にも、かつて賀川の援助をうけたものが、数えきれないほどいることを私は知っている。
欠点をいえば、かれは今も子供のようにアンビシャスで、それを露骨に口にすることだ。
例えば、かれが貧民窟にいた頃、周囲に集まってきたものが、「先生と伊藤博文とどちらが偉いですか。」ときいた。するとかれは即座に、「僕の方が偉い。僕の貧民窟での働きをスエーデンで紹介している。僕が博文の歳まで生きたら、僕の方が必ず偉くなる。」いつもこういった調子だから、知識人から誤解されるのも無理はない。
第二に、かれの人間認識が非常に甘いことだ。かれはつとめて人間のいい面だけを見ようとするから、かれを利用しようとするものに引っかかって、その失敗や悪評をかれが肩替りさせられる場合が多い。平野力三などもその一人だといっていいだろう。かれの周囲には村島帰之、小川清澄、杉山健一郎などのように、終始かれと共に歩んできた人も少くないが、すぐ離れて行くものも多い。それというのも利用希望者があまりにも多すぎるからである。
第三に、かれの誇張癖をあげねばならぬ。これは実利主義の影響だともいえるが、元々かれにはその素質があったからでもあろう。かつてかれの下で働いていた一青年が、いつのまにか法学士、弁護士になってしまい、後にそれが偽者とバレて悲劇的な結果を招いたことがある。その男に多少法律の素養があると、賀川はかれを人に紹介する場合、実力以上に見えるような表現をするくせがある。そのために新居格も「朝日新聞学芸部長」などという「賀川辞令」をもらったことがある。
これらの欠点をかれは誰にでも大っぴらに見せるから、人によっては「鼻もちならぬ」という印象を与えるのである。しかしそれらはすべて人間賀川の善意からくるもので、それを全部とり除いてしまったら賀川豊彦そのものがなくなってしまう。かれの「偉大さ」は、その善意のボルテージの高さから生れてくるのだ。
それよりも私がかれに一番感心している点は、これまで一度も女の誘惑に負けなかったということだ。かれのからだには、旺盛な事業慾と共に、淫蕩の血があふれていることは、前にのべたかれの一族の例に徴して明らかだ。私の考えでは、宗教的信仰と男女間の性愛とは非常に近いもので、どちらも「愛」という言葉による結びつきである。私たちが若い頃教会の門をくぐったのは、ほとんど神の愛とは別の愛を求めることが潜在的な目的であった。賀川が半世紀間もそうした雰囲気の中で生活して、一度も過ちを犯さなかったということは、普通の信仰ではできることではない。私などは七度生れかわってもできそうもない。
賀川はる子夫人は、もと印刷女工をしていた人で、実に稀にみる立派な、意志の強い人である。現在九〇歳を越えるかの女の母をはじめ、その妹で女医になった芝やへ、その他一族をあげて、文字通りに賀川の事業に献身をつづけている。したがって賀川をして今日あらしめた功の大半は、はる子夫人に帰せられるべきであるが、かの女は「美人」の部類に属する人ではない。
蘆花はかつて賀川に「女難の相がある。」といったそうだが、私も初めはそう思った。しかし蘆花や私は自身の心で賀川を計ったにすぎないと、今にして悟った。まだ「老いらくの恋」ということもあるが、賀川もすでに六三歳だから、この点はまず大丈夫と見ていいだろう。(この論稿は「賀川豊彦論」としてそのまま、大宅壮一『仮面と素顔―日本を動かす人々』東西文明社、昭和二七年、に再録されている。)
さて、この賀川豊彦評論には、多くの人物を評論し、広く人間観察をするとともに、賀川の表裏をよく知る大宅壮一ならではの、率直かつ洞察力豊かな賀川豊彦論が呈示されている。賀川自身はこれをどう読んだのであろうか。興味のあるところである。
(二)ノーベル賞候補
賀川豊彦がノーベル平和賞候補に推薦されたことはよく知られている。
一九五五[昭和三〇]年には、三七名の候補者が推薦されたが、結局、この年のノーベル平和賞の受賞者は決定されなかった。その理由は分からない。大宅壮一は昭和三〇年五月から七月に「西日本新聞」に連載したものを『人生旅行』(角川書店、昭和三一年)として出版しているが、その中に「ノーベル賞候補」なる文章が収められている。
「ノーベル賞候補」
谷崎潤一郎が次期ノーベル賞の有力候補に上がっているという噂がある。石川達三がペンクラブの世界大会に出たころ、彼の『生きている兵隊』で候補に上っているという噂が立ち、本人もまんざらでもなさそうだったが、これはどう考えてもおかしい。文学的にいっても大した作品ではないし、平和主義者としても戦時中の彼は海軍の軍属として占領地をまわり、被占領民族の言葉を日本語に改めろ、などという珍説まで発表しているのである。
石川よりは武者小路実篤の方が、作家としても大物であり、思想的にもノーベル賞に値するものをもっている。少なくともむかしはもっていた。『ある青年の夢』などにそれがよくあらわれているし、〝新しき村〟の建設もこれを裏書きしている。しかし戦時中から戦後にかけての彼の言動は、古い民族主義から脱していない。
作家ではないが、ノーベル賞候補としてよくうわさに出るのは賀川豊彦である。彼はすでに世界的に有名だし、一時は〝東洋の聖者〟としてガンジーやタゴールなみにあつかわれたこともある。彼の貧民窟における生活と仕事は、公平にいって十分ノーベル賞に値するものである。
しかし彼も戦時中に、軍部から上海に引っぱって行かれて、反米放送をやらされたのが、後々までたたった。戦後進駐軍の中の左翼分子が、これをあばき立てて、賀川は日本帝国主義の忠実な手先であると『星条旗』などに書き立てた。これがなければ、彼にはとっくにノーベル賞を与えられていたであろう。
亡くなった作家では、夏目漱石は日本的でありすぎて、国内でもてはやされているほど外国で歓迎されないであろう。徳冨蘆花も、ノーベル賞むきではあるが、作品は美文で読ませる点が多く、翻訳では味が出ない。
芥川龍之介となると、もっと近代的で、国際的でもある。ただし少々諷刺性が出すぎて温か味が足りない。それに外国の作品からヒントをえたものもあって、これを指摘される恐れもある。
一番ノーベル賞むきなのは有島武郎である。農地解放を行ったりした思想的な動きもいいし、作品の国際性も強く、適度の甘さもある。彼が今頃まで生きていたら、日本のロマン・ローランになっていたかもしれない。
賀川豊彦は一九六〇年四月二三日に召天した。その年の一二月、賀川追悼文集、田中芳三編著『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯とその事業―』(クリスチャン・グラフ社)が出版された。その巻頭には、大宅壮一のつぎの追悼文が収められている。
(三) 「噫々 賀川豊彦先生」
明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。
西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
私が初めて先生の門をくぐったのは今から四十数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。
近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人挙げよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物―、それは賀川豊彦先生である。
五 おわりに
NHKのETV特集・シリーズ「テレビが記録した知性たち」が放映されたが、その第六回「大衆文化の巨人たち」(一九九九年三月二四日放映)では小林一三、吉川英治、大宅壮一が取りあげられている。コーディネーターの草柳大蔵は、かつて大宅壮一が賀川豊彦について語ったNHKのインタヴュー録画(一九六九年一二月放映のNHK教養特集「社会事業の思想・賀川豊彦」)に基づいて話をすすめている。大宅壮一は若い日に賀川から多大の影響を受けたが、なぜ賀川から離れていったのかという、アナウンサーからの質問に、「賀川豊彦が神格化、偶像化されるようになったから」、「神様の楽屋裏がつくられるのを見てしまったから」と大宅は答えている。大宅壮一のような反骨精神の旺盛な人の目には、人間賀川を崇拝の対象とすることは容認しがたいものであったのであろう。大宅が上述の賀川豊彦論において、「人間」に「神」を期待することの誤りを指摘していることと軌を一にしている。 しかし、果たして、賀川自身が、大宅の言うように、「神様のように振舞った」のかどうか。大宅自身がこのような印象を著名人となった賀川から受けたとしても、そこには大宅一流の風刺的表現があることに留意する必要があろう。大宅はこのインタヴュウにおいて、賀川豊彦を〝スペキュレーター〟(投機家)と呼びながら、賀川の場合、〝ホーリー〟(聖なる)が付く、と語っている。つまり、神と隣人のための投機者であったのだ。
因みに、米沢和一郎『賀川豊彦Ⅱ』(日外アソシエーツ、二〇〇六年)において、大宅がNHK録画中、「賀川さんは神様になった」と発言したように記しているが、この記述は正確ではない。大宅はそのようには言っていない。しかも、大宅がこのNHK録画の中で「意味深」に答えているとか、「司会者の草柳大蔵が『いゃあいいものを見せて貰いました』と意味深な笑いを浮かべて締めくくった」(二九〇頁)といった著者の印象的記述は、本来書誌が要求する学術的表現には不適切であり、直接映像を見ていない読者に対してミスリーディングにもなりうるのではないか。
「中年以後の大宅君は、ある意味での露悪家、偽悪家という評価もたしかに否定し難い。だが、年少十七歳? にして賀川の門を叩いたという彼の真骨頂は、終生ついにつづいていたものとわたしは確信する。彼の露悪的擬態の底の底には、やはり妙な言い方だが一種の清教徒的ともいうべきものが、貫かれていたようにわたしは思う。そのつもりで最後までわたしはつきあっていた。」(『大宅壮一全集』第七巻三六三~六四頁)と言う、中野好夫の認識に、大宅壮一への深い洞察を私は読みとる。因みに、大宅壮一はたまには賀川豊彦の創立した松沢教会を訪ねており、大宅のご子息歩さんの葬儀には松沢教会の聖歌隊が参列して歌っている。
なるほど、若き日、賀川豊彦からキリスト教の洗礼を受け、社会主義の思想と実践についての指導を受けた大宅壮一はやがてキリスト教からも、賀川のキリスト教社会主義からも離れていった。特に、「無思想人」宣言以降、彼はあらゆる宗教やイデオロギーと決別した。それはしかし、制度としての宗教や体系としてのイデオロギーからの自由の宣言であって、大宅壮一の無思想を意味するものでないことはいうまでもない。人間と社会への旺盛な関心、ことにその大衆性と実践性において、賀川豊彦と大宅壮一には、終生、濃厚に相通じるものがあったのではないだろうか。
(かやま ひさお / 賀川豊彦記念 松沢資料館館長)
※大宅壮一氏の論稿の転載について、大宅映子氏の許諾を戴きました。また、(財)大公壮一文庫の糸川英穂氏と加瀬博道氏には、いろいろご教示いただきました。心より御礼申しあげます。
資料収集に際しては、明治学院大学図書館スタッフの方々のご協力を戴きました。感謝いたします。なお、引用文中、不適切な表現がありますが、歴史的文献のため、そのまま掲載しました。