1968年8月、16歳の夏休み。両親が住むパキスタンの首都イスラマバードを訪れた。インダス川が形成するパンジャブ大平原の北限である。北には世界の 嶺パミール高原がひかえるといえば大げさだが、イスラマバード周辺の山々がパミールにつながると考えれば気宇壮大になる。建国20年を迎えたアユブカーン大統領が建設をはじめた新首都である。原野の中に白亜の政府ビルが建ち初めたばかりであたりはまだ建設の土音が響いていた。貧しさはあってもカオスをイ メージするインド的バザールはない。
 しばらくして連れて行かれたのがタキシラという古都の跡だった。仏教を国教とした遊牧国家クシャン王朝時代のシルカップ古都だったところである。衝撃を 受けたのは出土されたギリシャ彫刻そのものの仏像群だった。明らかに西洋の顔立ちで、鼻は高く堀が深い、ウエーブのかかった頭髪。多くはストゥッコという 塑像でストゥーパの周辺を飾っていた。
 広い古都の跡地に入るとどこからか案内人が現れて、チップをあげると見るべき遺跡や仏像のありかを教えてくれる。しかし歴史的価値や美術的価値を十分に分かっているかどうか。「これは本物」「これはコピーで、本物は博物館」といった説明しかできない。
 タキシラ博物館に回ると収蔵品の多さには圧倒された。2000年近く前に仏教の一大拠点だったこと
を考えれば当たり前かもしれない。「掘れば何か出てくる」という表現が決して言い過ぎでないような気がした。タキシラ博物館では展示品を一応ガラスケース に入れてはいるものの、年代別に粗雑に並べてあるだけ。なんとももったいない話である。日本だったらその一つひとつが国宝なり重要文化財なりに指定され、 展示会ではビロードの敷物の上に飾られライトアップされるような逸品ぞろいだった。
 仏教を東洋的なものと考えていたものにとってギリシャ風仏像が存在することは予想外のことだった。仏像そのものがこのタキシラで生まれ、その後、シルクロードを経て中国に渡り日本にやってきてようやくわれわれが仏像と認める形相となったことも新鮮な驚きだった。
 そもそも仏陀は偶像崇拝を禁じたから、初期の仏教は仏陀の骨を詰めた仏舎利や仏陀の足跡の仏足跡を崇拝の対象にしていた。日本や中国に残る「塔」は仏舎 利を埋めたストゥーパが卒塔婆となり、なまったものである。塔の五重や三重の建物の部分はもともとの基壇が発達したもので本当のストゥーパは屋根の上の部 分に残るのだそうだ。
 僕の仏像を訪ねる遍歴が始まった瞬間だった。
 タキシラやペシャワールを中心とした地方はインドという概念に含まれていたかどうか分からない。ガンダーラという呼び名でも呼ばれていた。当時、ガン ダーラには京都大学の水野清博士が率いる調査隊が山深くパキスタンからアフガニスタンを踏査していた。水野博士は戦後の大谷光瑞といってもいい存在だっ た。仏教伝来の道を東北インドに求めていた。著書の「文明の十字路」というタイトルは実にいい響きを持っていた。(伴 武澄)