伊賀は甲賀とともに忍者の里である。伊賀は律令制度下の伊賀国であるが、甲賀は近江国の一角である。行ってみるまでは実感はないが、ふたつの忍者の里は緩やかな山並みをはさんで南北に隣り合わせている。
 伊賀や甲賀がなぜ忍者の里になったのか、不思議である。忍びというからには、ともに山がちな地形を想像したくなるが、これがそうでもない。伊賀も甲賀も盆地であり、豊かな田園が広がる。古代からの日本の幹線道である東海道は甲賀のど真ん中を貫き、伊賀の東北部を通る。だから決して人里離れた里ではなかった。そうと分かるとなおさら「なぜ」という疑問が強まる。
 忍びのくせにといっては差別的な表現になるが、忍者の親玉と考えられている服部半蔵は元は伊賀の服部一族だが、三河で徳川家康に仕え、1590年の家康の関東入国後は与力30騎、同心200人を配下に置く8000石の堂々たる地位に上り詰め、江戸城西側の門外に屋敷を与えられた。江戸城で人名が付いた門は半蔵門しかない。服部半蔵には忍びのイメージはかけらもない。
 伊賀国が歴史上特異なのは戦国大名を持たなかったという点である。伊賀盆地の中央には名張川が流れ、木津川と合流して大阪湾に注ぐ。イメージとして水は伊勢湾に流れるように思われるが、実は水系を通じて大和朝廷と強い絆を持っていた。しかも盆地の扇状地は大河の氾濫からまぬがれるなど古代においては理想的な耕作地帯だった。
 古くは東大寺の荘園としてその地盤を築いた。荘園は穀倉だけではなかった。僧兵の供給地でもあった。僧兵がいたからだろうが、武士が育たなかった。その結果、鎌倉以降も地頭や守護による支配がなかったから戦国大名もいなかった。その点で日本では特異な歴史をたどった。
 封建領主がいなかったのはたぶん、僧兵が存在したおかげなのだろうと思っている。僧兵の親分は東大寺で、しかもその東大寺は山を越えたところに厳然としていた。それでも戦国時代には藤林、百地、服部の上忍三家が地侍を配下におき、合議制で伊賀地域を支配した。
 伊賀で面白いのは忍者だけでない。観阿弥、世阿弥という能樂師集団の長を生み、俳句を完成させた松尾芭蕉を育んだ歴史を持つことである。芸能と文学をレベルの高い生業に生まれ変わらせたのだからこれは革命である。それも忍びの者が担い手だったという説もあるのだからなおさら興味深い。
 昭和37年、伊賀上野の旧家から「上嶋家文書」の江戸末期の写本が見つかり、観阿弥の父親が服部一族の上嶋元成で、母親は楠木正成の妹だったということが書かれていた。上嶋文書については偽書であるという説もあるが、観阿弥の子どもの世阿弥は「花伝書」で自らの先祖について「服部一族である」と書いているそうだ。楠木正成の甥であるかどうかは別として忍びの一族が旅芸人の猿楽師だったことは間違いない。
 情報の集積が商人集団を生んだことは確実である。近江商人や松阪商人はその典型であろう。古来、街道沿いを往来する人々が情報の運び役となった。政治や経済だけでなく、各地で起きたこもごもの悲喜劇もその情報に含まれるだろうことを省みると、街道沿いに芸能や文学が生まれたとしても不思議ではない。
 芸能の原点は、村祭りの出し物であろう。踊りや歌に併せて演劇も行われた。その中で秀でたグループが領主に招かれ、さらに選ばれて都にまで足を運んで演じた集団もあった。時代の為政者のめがねにかなったとなれば、その評判は全国に広がり、それこそ”興行集団”として成り立ったのだろう。
 そんな集団の一つが観阿弥能楽座だったはずである。