賀川豊彦が、生涯の活動の原点とした神戸のスラムに身を投じたのは、1909年12月、21歳の時です。ちょうど100年の月日が過ぎました。
 1919年に出版した『涙の二等分』という詩集があります。賀川はスラムに入って間もなく、「もらい子殺し」という「商売」があることを知り、なにより悲みました。「もらい子殺し」とは貧困などの理由で育てられなくなった子どもを5円、10円でもらってきて飢え死にさせる商売です。
 ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとします。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。しかし、おいしは、まもなく賀川の腕の中で死んでしまいます。その悲しみを詩にしたのが「涙の二等分」です。

  あ?おいしが唖になった
  泣かなくなった
  眼があかぬ死んだのじゃ
  おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ
  南京虫が──脛噛んだ──あ痒い!

 当時のスラムは想像を絶する世界た。住民は肉体労働者が中心で、乞食、博徒や売春婦も少なくありませんでした。悪臭ただよう生活空間は犯罪の巣窟であり、伝染病が蔓延していました。子どもたちはいつも空腹にさいなまれ、教育が与えられなかっただけではありません。年ごろになると男子は丁稚に出され、女の子は身売りの対象となりました。
 「貧しい人たちと共に生きる」と話したり書いたりすることは簡単ですが、賀川はアメリカ留学を挟んで約15年間も神戸のスラムに住み貧しい人々を支えつづけたのです。そのマザー・テレサのような生きざまは、それだけでもノーベル平和賞の価値があったはず。YMCA生みの親の一人であるアメリカのジョン・モットは賀川を評して、「今最もキリストに近い人物」と呼んだのも不思議なことではありませんでした。

 ■友愛の協同組合経済
 貧しい人々への共感と慈愛に満ちた賀川がスポットライトを浴びるようになったのは、1920年以降のことです。自伝小説『死線を越えて』が爆発的に売れ、三菱・川崎造船の争議で時の人となりました。息つく間もなく大阪と神戸に計三つの購買組合(生協)を立ち上げ、農民組合を設立します。関東大震災が起きると活動の拠点を東京・本所に移し、多くのボランティアを組織して被災者救済に乗り出したのでした。いわゆるセツルメントです。
 協同組合は、イギリスのロッチデール生協とドイツのライファイゼン信用組合を二大潮流とします。賀川は生協と信用組合とを組み合わせただけでなく、生産から販売、そして幼児教育から医療、保険といった、人々が生活に必要な事業を網羅して、協同組合で経営しようと考え、それを実践しようとしました。
 その集大成が『ブラザーフッド・エコノミクス(友愛の経済学)』(ハーパー社)という本。1936年にアメリカ、ニューヨークのロチェスター大学で行った講演が出版されたもので、またたく間に17カ国語に翻訳され、25カ国で出版されました。日本でも忘れ去られている賀川の「経済理論」が欧米でもてはやされたというから驚きです。
 1929年の世界大恐慌によって資本主義は信頼を失い、社会主義が台頭します。賀川は資本主義を「搾取的」と批判する一方で、社会主義の暴力に反対しました。そして、第三の道として提示したのが、キリスト教愛に基づく友愛の協同組合経済だったのです。
 愛のない経済こそが、貧困と紛争をもたらし、究極的に戦争に至るというのが賀川の信念でした。『ブラザーフッド・エコノミクス』は、経済理論であると同時に平和論でもありました。国境をなくして世界連邦をつくるという賀川の構想はEU(欧州連合)の基礎を形づくったともいわれています。
 鳩山由紀夫政権は友愛外交を標榜していますが、EUの父といわれるクーデンホーフ・カレルギー伯の「汎欧州論」と賀川の『ブラザーフッド・エコノミクス』はヨーロッパでは統合のバックボーンとなっています。そう考えると、東アジアが共同体をめざすときに、かならずや賀川の考えに光が当てられるはずです。

 ■医療や共済から農業、工業まで
 賀川が関係した事業で忘れてはならないのは幼児教育など社会福祉事業です。東京の雲柱社、神戸のイエス団は合わせて100カ所の事業所をかかえ、2000人が働いています。その後発展したものには「コープこうべ」「大学生協」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」などがあり、幅広い分野にまたがっています。
 そのほかにも、いくつかユニークな事業を紹介します。
 まずは、東京医療利用組合(現中野総合病院)の先駆的役割です。きっかけは農村の貧しさである。健康保険のない時代、医療費が高かっただけでなく、農村部にはそもそも病院が少なかったのです。事態を打破するため、産業組合(JAの前身)に病院を経営させようとしました。最初から農村部で運動したのでは影響力が小さいと考え、あえて東京で組合病院設立を申請します。予想通り、医師会の猛反発があり、政界を挙げての反対運動となりました。
 賀川は新渡戸稲造など良識派を先頭に立てて設立運動を展開し、1年以上かかって認可を取り付けます。反対運動が盛り上がったおかげで運動は列島全体に広がり、産業組合による病院設立がそれこそ燎原の火のごとく広がったのでした。現在、100カ所ほどあるJA厚生連傘下の多くの病院はそうした経緯で誕生したのです。世界では、協同組合が病院まで経営するケースは例をみないといいます。
 賀川はまた、貧しい人たちのためにこそ、生命保険が必要だと考えました。協同組合による保険業の経営を考えましたが、保険業法の壁は厚く、果たせませんでした。その代わりに戦争中に、産業組合による既存の保険会社の買収に成功しました。現在の共栄火災海上保険です。戦後になってようやく協同組合による経営が認められ、現在のJA共済が誕生しました。全国組織として全国共済農業協同組合連合会(全共連)となったのは一九五一年のことです。賀川は共済の生みの親でもあるのです。
 中ノ郷質庫信用組合は、関東大震災後のセツルメント運動の中から生まれました。人々の生活が疲弊する中、質屋が暴利を貪るようになっていました。滝野川で質屋を経営していた奥堂定蔵が義憤を感じ、賀川に訴えたことが創設のきっかけです。現在も19支店をかかえ、信用組合としては有数の規模を誇っています。東京の下町で担保主義をとらない経営は定評があります。
 このほかに、時計などを製造するリズム時計工業株式会社。源流は賀川豊彦が戦後、埼玉県桜井村(当時)に創業した農村時計製作所だったというとだれもが驚きます。賀川は農民運動の一環として「立体農業」を主張しました。簡単に言えば、米麦穀物ばかりに頼るのではなく、シイタケやクリ、クルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳を搾って自給すれば飢えずにすむ。加えて現金収入を得るために農村に工場が必要だと考えていました。小説『幻の兵車』(1934年、改造社)の中にもそのことが書かれています。
 農村に工業をという長年の夢が戦後1946年に実現します。旧陸軍の工場跡地に時計工場と時計技術講習所を設立。全国農業会が資本金350万円の8割を出資しました。結果的に4年半で経営は行き詰まり経営破たんしますが、農村時計のブランド名「リズム」を社名として、シチズンの出資を得て復活しました。

 ■ノーベル文学賞候補にも
 作家としても才能を発揮した賀川。小説『乳と密の流るゝ郷』は福島県の貧しい農村を題材に主人公の田中東介が協同組合と立体農業を学びながら成長して、村の復興を果たす物語です。月刊誌『家の光』で1934年から連載されましたが、連載中に雑誌の販売部数がほぼ倍増するほどの人気でした。1954年から3年連続してノーベル平和賞候補となったことは知られていましたが、このほど47、48年の2回、当時としては日本人で初めてノーベル文学賞の候補者であったことも報道されています。
 毒舌のジャーナリストとして知られた大宅壮一が賀川の死後に書いた有名な文章があります。明治維新以降、日本人に最も大きな影響を与えたベストスリーとして賀川の名を挙げ、こう述べています。「西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。「宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」。
 時代は移り変わっても、社会が抱える矛盾や問題が年々大きくなっていることは、当時も今も似た状況だといえます。賀川の行動と志に、私たちが学ぶことはけっして少なくはありません。(伴 武澄)