3年後、三宅は目のない子どもに会いに千葉県まで出かける。授かった子どもを15歳まで面倒をみるのがパルモア病院の一貫した方針なのだ。
 積もる話の後、にこにこ笑っていた三宅が母親に向かってゆっくり話だした。思いがけない厳しい言葉だった。
「ヘレン・ケラーは三重苦でした。目も耳も口もだめでした。あの子は目だけが不自由です。もっと触覚と聴覚を生かさないといけない。転んでも泣いても歩かせるのです。テーブルや壁を手で触って一人で歩かせ、一人でトイレに行き、顔を洗わすことです。手助けをしてはいけません。しっかりやらすのです」
 それから塙保己一の話もした。5歳で失明した彼は、13歳で江戸に出て学び、異常な記憶力で和漢の学に通暁、総検校となって多くの書を出し、碩学の門下を多数育てた話である。三宅は付け加えた。
「塙保己一は掌に字を書いて覚えた。巻一君にもそれをやってほしい。目の不自由な分、触覚は鋭い。やればどんどん賢くなる」
 まるで父親のような厳しさだった。しかしこの父母には慰めは不要であり、必要なのは成長させる手立てと工夫への助言だった。
 母親は言った。
「私たちは今まで傲慢だったと思います。街を歩いて障害児を見ても、ああ、かわいそうに--というぐらいで、それ以上何も感じませんでした。それが今、障害児を見ると、親の痛み、子の苦しみがまるで自分のことのように伝わってきます。頑張って、と声をかけてあげたい、何か手助けをしてあげたい。そして、世の中には健康な人ばかりじゃないという当たり前の事実を初めて知った思いがします。目が開かれたような気がします」
 「目が開いたのです。神がこの子をあなた方に運んできてくださった」。三宅はそう言いながら深くうなずいた。

 パルモア病院日記』は昭和59年1月21日に始まる。書き出しで大いに納得する部分があった。目のない巻一君をとりあげた李医師は韓国人だった。
「産科医、李芸求(イ・ウンクウ)はこの日、2度目の出勤をした。午前2時に緊急呼び出しを受け、タクシーで駆けつけ出産をすませた。そして家へ帰って仮眠してから午前9時に出勤したのだった。こういうことが珍しくなかった。先週も1日おきに緊急呼び出しを受けていた」
「李は韓国ソウルの高麗医科大出身の産科医で、銀行支店長の夫の日本勤務で昭和45年に来日。日本の国家試験を受けたあと、淀川キリスト教病院で1年間勤務し、昭和48年、パルモア病院へ来た。熱心なクリスチャンで、教会の牧師を通じて三宅を知った。大学生の息子ら3人の子供を持ちながら、産科医の激務を11年間も続けている」
 「それは、三宅の理想に触れ、心酔したからだった。韓国は国民の4分の1がクリスチャンの国だが、李の目から見ても、三宅のような医者は類がなかった。生まれてくる子のいのちに対する真摯な心と、そのためにすぐ実行に移す行動力、そして長いフォローアップ。--こんな人がいたのだ」
 そして最後に次の一節がある。
 「パルモア病院の産科医は今4人。李は韓国出身だが、李文遠、黄田秀穂は台湾出身。日本人は太田昭斌1人だった。まったく国際的で、学閥や国籍を問わずに仕事で選ぶ三宅たしい方針だ」
 うーん、なんという経営だ。(完=伴 武澄)