一昨年、昨年と47NEWSの編集に携わりながら、全国のサクラ紹介とサクラマップをつくってきた。その仕事からは外れたが、「花咲爺ブログ」を続けて欲しいという要望があった。今まで筆が進まなかったのには理由がある。今年の桜前線は例年より早く列島を北上するとの予測が出ていたが、3月後半の寒さで、開花宣言から満開まで時間がかかった。
 そういうわけで、サクラを愛でる意欲が例年より減退していた。しかし、何冊か新たにサクラの本を取り寄せ、東京のサクラの名所を歩き始めるとエンジンがかかってきた。5日は筆者が隠れた東京の名所だと思い込んでいる上北沢の駅前を訪れた。
 満開だった。5日は日曜日だったため、サクラ並木は縁日のようだったが、平日は人通りも少なく静かにサクラをめでるにはいい場所だ。並木としては規模は小さいが、我が町のサクラ並木として通勤や通学、買い物の行き帰りに愛でるのにはいいサイズなのだ。
 サクラを眺めながらこの町の誕生について考えた。上北沢は桜並木を中心に肋骨状に住宅街が広がっている。田園調布や国立の南口は扇状に住宅が広がっているが、肋骨状は珍しい。というより大正期以降、サラリーマン層が郊外に住宅を求めるようになった時、サクラ並木を中心に町をつくったことが多かった。
 上北沢は戦前の社会運動家、賀川豊彦が関東大震災以降住みついた。賀川のシンパが多く移り住み、大宅壮一も隣の八幡山を住居とした。隣接して精神医科の松沢病院があったため、上北沢周辺は同時期に開発された田園調布や成城学園などと比較しておせじにも人気化したとはいえなかった。その分、”高級住宅地”ともならず、普通のサラリーマンの町として成長していった。
 上北沢にはいまも、賀川豊彦記念松沢資料館、松沢教会、その付属幼稚園と保育園があり、住民にとって誇りのひとつとなっている。桜並木の樹齢は約90年ぐらいだろうか。。誕生はたぶん賀川が住み着いた1923年ごろと推定される。
 サクラはこの時期日本のどこでも咲いている。それぞれに美しい。名所といわれるところは人混みで風情どころではない。屋台の醬油のにおいで興ざめでもある。サクラはやはり愛でるものであり、静けさの中にこそうたごころも生まれようというものだ。(平成の花咲爺)