そのむかし、夏目漱石は東大で英語で授業を受けていたから、英語で詩を書くことに惑いがなかったと聞いたことがある。明治人はいまと比べものにならないくらい国際人だったことは誰もが気付いているに違いない。

 国際社会の舞台で堂々としていた多くの明治人には漢学の素養を身に着ける一方、国際語としての英語を通じたヨーロッパ文化の常識に通じていた。これは常識の部類なのだろうが、どうして明治人にできたことが昭和人にできなかったのか? そんな疑問を抱き続けていたが、穂積陳重『法窓夜話』(岩波新書)を読んでその疑問がある程度氷解した。
 明治初期、日本が西洋の文物を取り入れるにあたって一番苦労したのは「言葉」だった。明治初期の高等教育は東京外国語学校、そしてそれに続く各地の英語学校から始まった。東京英語学校、仙台英語学校、大阪英語学校はそれぞれ一高、二高、三高に発展した。なぜ仙台が「二高」となったのかという疑問はさて置いて、多くのお雇い外国人を雇用してヨーロッパから輸入した教科書で日本の高等教育が始まった。
 ヨーロッパの学問や制度には政治も科学も含めて日本語にない概念が多すぎたから、すべての授業は外国語、主に英語で行われた。お雇い外国人教授に引き続いて教壇に立った多くの日本人教授もまた外国の教科書を持ち込んで外国語で学生を鍛えた。
先生「France is now a republic.Not like our country,they don’t have a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleがsovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明してください」
先生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だが、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位していて、将軍が江戸でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学んで天皇を中心にどのようなまつりごとの仕組みをつくろうかみなが考えている最中なのだ」
「政治」も「共和」、「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった・
 明治期に多くの現在の政治、経済用語が生まれたが、「Constitution」という概念が最後まで日本語として定着しなかった。穂積によれば「定着するまで20年近い日々を必要とした」ことになっている。
 穂積は漢学者の家に生まれ、イギリスとドイツに留学し、建学間もない帝大法学部講師になったが、明治14年まで授業はすべて「英語」だったと書いている。「ようやく授業に日本語が入るようになったのは明治14年。法学部の授業が日本語になったのは明治20年ごろ」だったのだそうだ。
 またConstitutionというフランス語を最初に「憲法」という漢字にあてたのは、箕作麟祥だった。明治6年のことである。「国法」、「国制」、「国体」、「朝綱」など、使用されていたさまざまな訳語の一つにすぎなかったから、まだ定着はしたとはいえなかった。大学の授業ではConstitutionで通っていたはずだ。
 明治政府は明治16年、伊藤博文を「憲法取調」という役職につけた。プロシア、オーストリアに憲法を学びに行かせた。というより自ら学びに出掛けた。その時「憲法取調」という役職が新設されたといった方が正しい。政府として初めて「憲法」という漢字を使ったから、それからConstitutionは日本語で「憲法」と定着したらしい。
 江戸時代の「憲法」という語はいまでいう六法全書のようなものを意味していた。ちなみに福澤諭吉は慶應2年の著書『西洋事業』で「アメリカ合衆国のConstitution」のことは「律例」と訳している。(伴 武澄)