数年前開かれた武蔵野第一中学校の同窓会で銭村という初めての男と同席した。校区にあった井の頭小学校は出たが、親の転居で武一中には在席しなかった。当日は井の頭小学校のメンツが多かったため、たまたま声をかけられ参加したのだという。
 銭村は一橋大学を卒業して大手証券会社に入るが、なんで転居したのか理由を聞いたところから話はがぜん面白くなった。
「おやじは東洋工業に勤めていてサッカーをやっていたんだ」
「東洋工業ってマツダだろ」
「そう。だから井の頭小学校に来る前は広島にいたんだ」
「広島の人だったんだ」
「いや違ってね。おじいさんがアメリカに移住していて、おやじが慶応大学に留学していたときに戦争になったんだ。広島はおじいさんの故郷さ」
「えっ、それでお父さんは収容所に入っていた?」
「うん、アリゾナ州の収容所。おやじには建三、建四という弟がいて、戦争の時は高校生だったんだ。母親も妹も一緒に収容所に入っていた」
「苦労したんだ」
「おじいさんは野球が大好きで、収容所でも球場をつくってみんなで野球をしたらしい。で、建三、建四も戦後、大学に入って野球をやった。その後、請われて広島カープに入団した。銭村兄弟って有名だったんだぜ」

 調べてみると、銭村建四のことは中国新聞のサイトに出ていた。
 第8部 よみがえる熱球 マイ・グレート・メモリーズ・アズ・ア・カープ(1)銭村 健四
 「得意の足 ファン魅了 父の夢”故郷”で体現」
 http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/8/990810.html
 浅黒い顔の中で、ギラリと光る精かんな目。そして、小さい体を目いいっぱい使ったエネルギッシュな動き。広島びいきの名物実況 で知られる中国放送の山中善和アナウンサーは「アメリカからやってきた黒ヒョウ」と評した。五三年六月、来日した日系二世の銭村健四は、その抜群のスピー ド感で広島ファンの心をつかんで離さなかった。
 兄健三、同じく日系二世の光吉勉とともに後援会が四百万円もの募金を集めて呼び寄せたことに加え、銭村兄弟の父が広島出身となればファンの期待はいや応なしに盛り上がる。三人の広島入りには十万人が人垣を作って出迎え、オープンカーでパレードしたほどだった。
 なるほど当時の日本のプロ野球はアメリカの大学生並みでしかなかったのか。そんな思いにさせられた。建三はすでに教員の試験に受かっていたため、その年の8月いっぱいで帰国してしまうが、建四は4年間カープに滞在して、アメリカでレストランを経営することになる。
 言い忘れたが、おじいさんは建一郎といって、おやじは建次といった。建次は慶応大学を卒業すると東洋工業に就職する。サッカーが縁だったらしい。(伴 武澄)