世界的な経済危機を背景に国内でも労働力のリストラが相次いでいる。派遣労働者が真っ先に首切りの対象となるが、その最前線にいるのが日系ブラジル人である。
【改正入管法】1990年6月に導入。海外の日系人で日本国籍がなくとも先祖に日本人がいることが証明できる書類(戸籍)があれば、日本でも滞在・就労ビザを発給できるようになった。ブラジルの日系人が日本で働くようになったのは1964年の東京オリンピックの建設ラッシュに始まるが、急増したのは1990年以降のことである。
【大泉町】戦前に中島飛行機があり、広大な敷地は1959年まで米軍基地として使用され、62年から三洋電機と富士重工業の工場が相次いで誘致された。関連中小企業は200社にも及び、関東平野の組み立て産業の一大集積地として発展してきた。80年代には労働力不足から、ブラジルにいる日系人の活用に乗り出していた。
【東毛地区雇用安定促進協議会】大泉町の62社で結成し、サンパウロを中心に人材雇用に乗り出した。当時の大泉町の真下正一町長は、「日本人と同じく徴税するが、社会福祉や子弟の教育の権利も保障する」と“外国人”の人権を守る方針を打ち出した。当時としては先駆的試みで全国的に「モデル」となった。
【日本人の移民の歴史】日本人のブラジル移民はことし、100年を迎えた。約30万人の移民がブラジルに渡ったが、現在では150万人の日系社会を築き、多くの国会議員も輩出している。移民は世界的にみて特異なものではない。アメリカはいまだに多くの移民を受け入れている国である。中国の改革開放は東南アジアの華僑マネーが逆流入して飛躍の起爆剤となった。国境を越える地縁血縁がグローバル経済を支えているといっても過言でない。
 日本も明治以降、ハワイ、アメリカ、ペルー、メキシコ、ブラジルなどに国策として移民を送り出した。北海道開拓も“移民”の歴史といえなくもない。戦前、東南アジアと中国に住んでいた日本人はほとんどが強制的に日本に戻された。その数、300万人を超えるといわれる。
【外国人労働問題】1990年前後、日本がバブル経済を謳歌していた時代、労働力不足が大きな問題となった。女性と高齢者の雇用を増やしても経済成長をまかなうための労働力が圧倒的に不足するという問題意識が産業界を中心に議論された。結果的に改正入管法が生まれたのだが、欧米のように外国人を全面的に導入するという考えは否定され、研修制度の拡充と日系人雇用拡大という中途半端な制度改革となった。この20年、日本の自動車会社は大きく発展したが、日系人たちの存在なしには国内生産を拡大することは不可能だったことを肝に銘じるべきである。