ジャヴァ沖の六点鐘
2008年11月23日
第一章:上海序章
上海には特有の匂いがある。1940年10月、私の船が海岸通近くに入港した時、その最初の淡い「薫り」が黄浦江を横切って漂ってきた。私は匂いに対しては常々敏感であったが、東京の新聞社での職を辞してUP通信上海支局に赴任するべく下船した瞬間に、私の嗅覚が私の夢の街上海は決して私を失望させないと確信させたのである。
少年の頃からこの町を見たいと望んでいた。ソルトレイク・シティーでの5年間の新聞記者生活の間にも、いずれは海外特派員としてこの街に来たいと画策したものだ。そして今、日本での任務を終えて私の夢は実現しようとしているのである。
下船して、部屋を決め、手荷物を片付けたその数時間後、もう私の嗅覚は中国のニューヨークとでもいうべき街での探検第一歩を開始していた。様々な匂いを嗅ぎ分けるには何週間、何ヶ月という長い時間がかかる。しかもその全部を窮められたはずはない。それでも、「上海」という言葉を耳にする度に、それらの匂いは今も私の鼻腔の奥に蘇る。
およそ東洋の各都市は街を代表するそれぞれ独特の異質な匂いを持っているが、上海の匂いはその中でも格別で、複雑でもあるといわねばならない。私にはこの状態を次のようにしか表現できない。即ち「上海は目と耳が不自由で、しかも熟睡からさめたばかりで意識が朦朧とした人にも、匂いで時刻を教えてくれる。上海の匂いは24時間常に変化しているからである」。
夜明け前の上海は、無数の小さい荷車に積まれた前夜の汚物の匂いである。みすぼらしい苦力が裸足で汚物を満載した車をどこかの下肥集積地に引っ張っていく。上海にも下水施設はあるが、しかし数百万の人口の排泄には不十分なのである。いや、もし十分だったとしても、それはおそらく下水に流されはしないだろう。糞尿には肥料としての市場価値がある。中国人はモノを無駄には捨てない。
もうひとつは、不潔な黄浦江のあやしげな匂いに邪魔されはするが、もっと健康的な香り、即ち朝の匂いである。この河の臭気と排泄物の悪臭は、この時刻、今にも競争を開始しようとしている。だが、軍配はそのどちらにも上らない。河向こうの浦東の煙だらけの工場地帯の上に太陽が昇り始め、陽の光が泥の水面を打つと、一瞬、泥の流れが広い帯状の光に変る。この時もうひとつの匂いが上海の街々の洗われた事のない道路から生まれてくる。そして、これらが他の二つと混ざり合い、溶けあって、遂に完全にひとつの匂いを作り出して朝日に輝き始めるのである。上海市民数百万が目を覚まし、夜通し鍵をかけて厳重に閉められていた扉や窓を開放して、彼らの吐いた臭い息を屋外に追放する。これが上海起床時の匂いである。
次いで労働者たちが戸外に続々と繰り出して来る。そして暫くすると各街路は布製の靴に空色の服で店や事務所に急ぐ人の波で溢れる。南京路、四川路、その他の街頭に沿って、というより、世界で最も繁華な都会のひとつである上海の忙しい中心街の店頭の鉄製のシャッターがバタバタ・ガラガラと開けられる。鉄格子の入り口がアコーディオンのようにガチャガチャと折り畳まれて、商売の場所が作られる。すると彼方此方の門口で昨晩一夜をその家のコンクリートの階段で生きながらえた、汚い瘡だらけでボロボロの服を着た、見捨てられた人間--上海の乞食が蠢き始めるのだ。彼らはやるせなさそうに膿んだまぶたをしばたたかせながら物乞いに出かける。一晩中悪臭に見舞われた家々の門口からは、みじめな匂いが漂い、それが他の数々の悪臭と結びつく。それは次に急ぎ足の何百万の足元から、今たち始めた埃や、疾走するトラックや、乗用車の吐き出す紫色の排気、そして「満員だ!道をあけろ!」と、鐘をカランカラン鳴らしながら、運転手達が道を邪魔するものたちに浴びせる金切り声や口汚い罵声の中を、うめくように南京路を往来するはちきれそうな電車の雑音とひとつに溶け合い、からみあって、さながらその生活と人間性を粉々に押し潰しているかのようである。
あちこちの門前には、立ち上がろうとしない生気のない乞食が行き倒れている。まもなく死人の腐臭が他の匂いと混同して流れてくる。その門の後ろには莫大な極東商人の富、即ち、銀行、商店、両替店等が屹立し、飲食店には東洋と西洋の食物がふんだんに充満しているにも関わらず、これらに憐憫の手を差し伸べることのない門の前で、幾多の乞食が息絶える。毎朝、である。その数は特に冬に多い。門口に乞食の屍のある光景は通行人が一瞬のためらいもなく平気でその脇を回って通るほどありふれている。中国慈善協会の車が死体を取り片付けにやってくるまで、いつまでも現場にそのまま横たわっている事もある。
ある朝7時前に、私は蘇州川にかけられた橋と第一郵便局の方に向かって四川路を急いで歩いていた。そこは上海の最も繁華な街道のひとつである。私は一人の乞食の屍を飛び越えた。ここは狭い歩道で、死人の頭は建物にもたれ、その足は街路の反対側にある縁石にまではみ出していた。道が死体で遮られていたのである。次の3時間の間に何千人もがここを通ったはずだが、皆無造作にこの死体をまたいで行ったようで、私が10時にそこを再び通った時もそれはそのまま放置されていた。
ある夏の夕方、友人と上海口外のハンジャオ地区をサイクリングした事がある。このあたりの建物は稲田や菜の花畑に切り替えられ、そのあたりには放置された棺が点在して、葬式という幸運な日を待っていた。
遠方に大きな焚き火を見つけたのはもう暗くなってからであった。私達はその方向にペダルをこいだ。積み重ねた干草が燃えているように見えたのだが、近づいてみるとそれは高い囲いの中であり、実際に燃えていたのは干草ではなかった。門を押して中にはいると、そこは真昼のように明るかった。私達の前では20~30平方フィートに高さ15フィートもあろうかと思われる屍の山が火葬に付されていた。あるものはみすぼらしい棺に入れられているが、殆どはむき出しのままであった。
火葬屋が先の方で二股に分かれている長い鉄の棒を杖にして立っていた。彼の説明によると大人の死体は他の場所で焼かれていて、ここで焼かれているのはその日上海市中で拾われた78人の子供の死体だという事であった。この日は特別沢山の死人があったのかと聞くと、そうではなくて普段はもっと多いと答えてくれた。慈善協会は拾い集めた死体を中国の葬儀習慣に従って一体ずつ棺に入れるよう努力はしているが、何分にも行き倒れの数の方が手配できる棺の数を遥かに上回る状態で、多くは棺に入れられる事なく火葬されるのである。
不思議なことには人肉を焼く匂いは全くなかった。火葬屋の説明では、火力が強い場合臭気はないのだそうである。しかし、全てが殆ど燃えつくして灰となり、炎がおさまって煙だけが残る頃になると、その臭気は耐えられぬほどで、付近に住む人々から苦情が来るそうである。
その火の光が明るかったので、私は写真が撮れると思った。小型カメラの焦点と露出をあわせてちょうどシャッターを切ろうとしたとき、火葬屋が先の尖った鉄棒を炎の中に差し入れてかきまわし、器用な手つきで鉄棒を扱って私の足元に炎と煙に包まれた死骸をさらけ出した。その大きさから判断すると12歳くらいの子供のようであった。
「うまく撮りなよ」と彼は甲高い声で言い、鉄棒で死体をひっくり返して上向きにしたのである。
実に、実に東洋には様々な匂いがある。彼の地で香木を沢山焚くのはこの為ではなかろうかと思う。この辟易するほど甘い匂いが他の様々な芳香と結びつき、同化して、霧のように濃い、ひとつのものになる。これが午後から夕方にかけての匂いである。
夜が更けるにつれて、匂いは市内各地域により異なったものとなる。「血まみれ通」と呼ばれている裏通りの周囲とその付近のバーやキャバレーのあたりでは古ぼけた煙草や安ウィスキーの匂いがその大部分を占める。蘇州川や虹橋運河沿い、又は揚子浦路を下ると、鼻にツンと来るジャンクに積まれた夜の汚物の毒々しい匂いが一段と強くなる。私のいた頃の虹橋一体では、日本の巻煙草の香りがしていた。日本の煙草にはすぐそれとわかる特有の香りがあるから、わかる。上海であの香りを嗅ぎ慣れていた頃、私の思いは匂いの翼に載って東京に運ばれたものである。が、今あれを嗅ぐと捕虜収容所の鉄条網の外で日本の監視人たちがこれ見よがしにプカプカふかしている一方、鉄柵の中では煙草と食に飢えて骸骨のようになった捕虜達がヨダレを垂らす光景が目に浮かぶ。
上海のすべてが臭いのではない。実際はしばらく住んでいると誰でも、いやな匂いではなく慣れ親しんだものだけを意識するようになる。私も上海を去ってからはあの匂いが恋しい。
立派な身なりの暖かい毛皮に包まれた婦人から漂って来る各種香水の香りは心地よい匂いの部に入る。彼女達はタキシードを着た用心棒を連れていて、高級車から降りると群がってくる乞食を押しのけ、あたりの物貰いには目もくれずに市中の立派なホテルに入って行く。香水は、しばしばこれを使用する牛乳のような肌と、丹念に結い上げられた髪と、きつい目線の持ち主自身より高価でお洒落な贅沢品である。ホテル内では、いや、ホテルに限らず建物の中にさえいれば、外国人も中国人も街頭に貧乏人のいる事は忘れていられる。再び屋外に出て、泣き言をつらねて付きまとい、時には踊り、時には歌い、時には海兵が教えた下劣な詩を暗誦して物乞いをする子供を追い払わねばならなくなるまでは。
印刷して憚らぬ唯一の物貰いの文句は、ボロ服をまとった小僧の口から聞くおなじみの「ノーママ、ノーパパ、ノーウィスキーソーダ。どうぞ、だんな、25セント」だけである。
安っぽい、しかし強烈な香水の匂いは南京路の例の一画をなしている新世界百貨店に接近している事を知らせてくれる。このデパートの前には厚化粧で派手に着飾った若い夜の女達が、それぞれ醜い顔の遣手婆に連れられてズラリと列をなしている。これら遣手婆は、カモになりそうな男の袖にしがみついて、交渉に必死である。ユーヤチン路(Yu Ya Ching Road)とエドワード七世路との交差点付近まで行くと、そこには粗末な身なりの、もっと安い、そしてもっとしつこい娼婦が遣手婆とたむろしている。
心地よいフランス租界の住宅地域では、上海の匂いは薄らいでいる。そこには手入れの行き届いた庭と広い芝生があり、樹木や草花が静かに生い茂って、殆どに近くアメリカの香りそのままを発散しているからである。ソルトレイク・シティーの私の家のヴェランダに座り、星を眺めながら暖かい空気の中にささやく綿の木の葉の音に耳を傾けていた夕べのような香り。
勿論、ニンニクの匂いは至るところに溢れている。その匂いの強さは自分と人力車夫との距離と、車夫の人数の多少によって異なる。掌一杯の米とニンニクは車夫が客を乗せて一日中、又は一晩中走れるだけの精力を与えるとさえ言われているのである。時々、車夫の背中を見下ろす一段高い座席に座っていると、あまりにも強烈なニンニクの匂いのせいで、この素足の車引きはバタバタ走るというよりも飛んでいるのかという錯覚にさえ陥ってしまう。その間彼のむき出しの背中に汗は流れ、息は大きく喘ぐ。しかし、いついかなるときも、彼は後ろの客の方に頭をねじ向けて応対したり、行き違う同輩と冗談を交えたり、あるいは彼らに罵声を浴びせたり出来ないほどひどく息を切らすような事は決してない。彼等はあと数年は車を引く体力を保てても、その後は乞食に身を落として、序々に死に行く運命を背負った、この世から見放され飢餓に瀕した人間なのかも知れないが、それでもユーモアは持ち合わせている。彼は笑う事を知っている。又現実によく笑う。中国の持つ粘り強い耐久力の神秘性はその内に潜むそんな時にでも笑う事の出来るユーモアだと私は思う。その反対に物事を余りにも難しく考え、先天的ユーモアを全く持ち合わせない点は日本の根本的な欠点といえよう。
私の船が波止場に着いたその日から、私はこれら様々な上海の匂い探索生活に没頭し始めた。この地に暫く住んで初めて、その前に日本を経験しておいた事に感謝した。もしアメリカから直接中国に来ていたら、当時彼の地で戦っていた日本人の残虐非道な戦争行為のせいで、多分私は日本人にも良いところがない訳ではない事を全く信じずに終ったかも知れない。しかし、幸いにもそれまで私は日本で働いていたので、日本人全部が中国を略奪している日本軍代表のようではない事を承知していたのだ。
私は近いうちに太平洋で必ず戦争が起こると予想し、そしてその時は特派員・従軍記者としてそこにいたいと願い、本国での新聞記者としての職を辞して国を出たのだった。当初私の計画では直接上海に向かう事にしていたのだが、戦中で読んだ本と船客達から得た情報の結果、まず日本について知る事が先決だと自分を説得した。
1939年12月22日にロスアンゼルス港でコマキ丸に乗り込んだ際、船客名簿を見てキャビンでの私の相客の名はJ. Tewであると知った。
「よし!」と私は思った。「中国に帰る留学生だ。中国を知るのにはうってつけだ」。
しかし、実は“J.Tew”はJames Dinsmore Tew Jr. という、背丈が6フィートもある、茶色の髪をした立派な体格の米人記者で、私と同様冒険を求めて極東に向かう男だったのだ。
私達は東京で英字新聞社に採用された。ジムは「アドヴァタイザー」に、私は「ジャパン・タイムズ」に。数ヶ月は二人とも帝国ホテルを住居にした、翌年4月には共同で鎌倉の海岸近くの、門口と家の周囲にめぐらされた竹垣に大きい朝顔が固まりになってまとわりついている小さな家を借りる事にした。家と庭の面倒は子連れの女中を雇って任せた。それぞれの職場からこの浜辺の町までは汽車で一時間の距離。ジムは夜番で、私は昼間の仕事だったので、週末以外に二人が一緒に家にいる事は滅多になかった。
家々の竹垣にはさまれて、くねくね曲がる小道をちょっと降りるとすぐ海があった。小鳥と共に起きて、小道を駆け足で降りて海に飛び込み、朝食前のひと泳ぎで体を冷やして、急いで家に帰って風呂を使い、朝食を済ませて7時の東京行きに乗るのが日課だった。
ジャパン・タイムズの支局は、煤と、煙と、こんがらがった電灯線と、古いタイプライターと、脚のグラグラした机が雑然と置かれた3次元的空間であった。安月給の日本人翻訳者達はぶ厚い眼鏡を通して自分の仕事と世界を見つめているのであった。翻訳者の仕事は日本語の新聞を読んで、その内容を我々西洋人が記事に書き直せる程度の英語にすることである。カリフォルニア生れの二世で、村田五郎という男が編集部という聖域を支配して、辛うじて読むに値する新聞を発行していた。
日本語を覚え、日本の習慣を知る為に、私はいつもできるだけ多くの日本人と交わるように努力した。週末には五郎が東京の周辺を案内してくれ、田島という翻訳者は私を家に招いて日本の風習について説明してくれた。
ある晩、田島と私が銭湯の湯船で熱く沸き返っている湯の中に顎までつかって座っていると、子供を抱いた母親が男湯と女湯を隔てる扉をごく自然にくぐって幼い子供を夫に渡しに来た。湯船の中では直ちに子供が人気の中心になった。女湯の方に帰ってゆく母親にちょっとでも気をとられたのは私だけのようだった。日本には裸は見えても眺めてはならぬという諺があるという。アメリカ人と日本人の裸体について観察中の私の夢を破って、すこぶる流暢な英語ではっきりした声がこう話しかけた。「君はわが国の裸の事実を学んでいるのだ」。
苦笑しながら声の方に振り向いて、その主の顔を見た。それは快活な顔であった。穏やかな黒い瞳が湯気を通して人のよさそうな表情で私を見ていた。髪は丸刈りではなく長かった。その髪の持ち主は白い歯を見せて自然に、そして気軽に笑っていた。金歯が富裕の象徴とされているこの国の人には珍しく、この男の歯にはそれがなかった。我々は当たり障りのない話をした。この日本人は英語の練習の為ではなく、私と静かに世間話を楽しむ珍しい存在であった。
かくして、私は西と出会ったのである。これは彼の本名ではないが、これで十分だろう。彼は戦時中に亡くなったが、彼の思い出や彼の親戚に迷惑を及ぼすような事はしたくない。彼は我々の時代の最重大ニュースを私にくれるために自身の命を賭けた人だからだ。あの夜、銭湯で初めて知り合ってから、パール・ハーバー攻撃後のクリスマスの朝、彼に別れを告げた翌未明に、上海周辺のバリケードを抜け出して、自由中国に脱出するまでの間、彼と私はまるで偶然のように、しかしとんでもないところで顔を合わし続けて来たのである。彼は政府のある役所に机を構えていたが、そこにいる事は殆どなく、常にヒマだヒマだとこぼしていた。ご他聞に漏れず政府が彼を必要とするのではなく、彼に仕事が必要なために数多い机のひとつを彼が独占する事を許されていたのかもしれない。これこそが日本において失業者数が我々の定義に比べて少ないひとつの理由ではないかと考える。友人や親戚には少なくともその面目を取り繕うために、名目上の仕事と同時に生活費を給与する。これはアメリカの超効率的な企業組織に忌み嫌われるところの不効率を生んでいた。しかし何れにしても、彼らは皆働いていた。失業手当や救済金を受ける何百万という階級は存在しなかった。
西の事務所に電話をしても、彼は滅多に席にはいなかった。しかし、伝言さえ残しておけば1時間か2時間以内には必ず、私がどこにいてもさも偶然のように彼は私の前に姿を現したものだ。私は彼について長い間不審の念を抱いていたが、私への接近に関する彼本来の動機と目的が何であったとしても、彼が最後に私にしてくれた事は純粋にその友情に端を発しているという事実に疑いの余地はない。我々は互いに個人的な問題には立ち入らなかったので、私は彼が家庭を持っているかどうかさえ知らなかった。私の側の目的は彼から情報を得る事であった。彼には高位高官の間に友人が多くいたのである。しかし、最高機密と言える秘密を漏らしてくれたのはたった一度だけだった。そして、ただ一度のその時でさえ、それはただ私が時間のあるうちに危険から脱出できるようにという配慮からだけの行為であった。実際にはそんな時間はもうなかった。しかし、彼の試みに対して私はいつも感謝の念を持ち続けている。
西は半生をアメリカで過ごした、東洋の心と西洋の理性を併せ持つ不幸な日本人の一人であった。アメリカ育ちの頭脳と日本生れの感情が、その中で絶えず葛藤していたのである。1940年を通じて日本がアジアにおける経済緊縮政策に拍車をかけた為に東京・ワシントン間の暗雲が濃くなるにつれ、私は西に代表される内なる葛藤の例を多く見るようになったと思う。日本国民の心が盲目的に指導者に従えと告げる一方、彼らの理性は危険を悟っていたのである。
ジムと私は快適な生活を送っていた。鎌倉の海岸に寝転んでいる時は、暖かい陽の光や波のささやき、そして時々ゴォーンと鳴り響く寺の鐘以外の事は全部忘れていた。しかし、東京ではそんな訳にはいかない。時は刻々と迫っていた。もし戦争が起こるのなら、東京で捕虜になりたくはなかった。去るべきか去らざるべきか迷っている自分の心を定める役に立てようという思いつきに好奇心も手伝って、様々な国からの特派員仲間にアンケート調査を実施した。「君は日米間に戦争が起こると思うか?」と。
彼らの回答は興味深かった。ただ一人の例外はあったが、大多数が日米戦争は起こらないと答えたのである。例外は、インターナショナル・ニューズ・サービスのラリー・スミスだった。彼は語調を強めて「起る。その時俺は日本にいない事を願う」と回答した。事態はその通りになって、彼は開戦時には日本を離れていた。
日中紛争のなりゆきについての質問には、多くの記者は「これは夫婦間のもめ事のようなものもので、時間はかかっても和解に至るのは必至である」という見方であった。その和解の時こそは、アジアにおいて白人がその足元に慎重になる時である、と。
気持が定まったので、ジムと私はもうしばらく日本に止まる事にした。が、1940年9月、日本はドイツ・イタリアとの三国同盟に加盟した。その時点で殆どの外国人記者は考えを翻した。
「潮時だな」。ジムと私は話し合った。
協定調印の発表は外務省記者会見場の混雑の中で行われた。会見が終ると私はジャパン・タイムズに最後の記事を書いて荷物をまとめた。既にU.P.上海支局での仕事が決まっていたのである。
ジムは一ヶ月を経ずに上海に来たが、特派員としてではなく休暇を過ごす為であった。彼が彼の計画について語ったのは、11月末、上海アメリカン・クラブのバーで別れの杯を傾けている時である。彼は民間機操縦士の免許を持っているので新聞記者の仕事を捨てて、もっと刺激的なこと、例えば戦闘機乗りのような仕事がしたくてたまらないと言うのだ。まず故郷に帰って両親に会って‐‐彼の父親は元B.F.グッドリッチ・ゴム社の社長である‐‐それからカナダに行って英国空軍に入るのだと言う。
「何でアメリカ空軍に入って1年かそこらしてからこっちに戻ってジャップを撃ち落とさないんだ?」と私が聞くと
「俺、歳だからさ」と彼は言った。「もうすぐ27歳だ。でも英国空軍なら何とかうまくやって入れると思う」。
そして我々は同じものをもう一杯ずつ注文して、英国空軍の為に乾杯した。手遅れにならないうちに日本を出られた幸運と、英国空軍と、我々の将来の為にグラスをあげて乾杯した時、我々にはそれぞれの行く手に広がる冒険しか見えなかった。
* * *
東京から上海に来るという事は、あたかも灯火管制から抜け出して世界博覧会の真ん中に飛び込むようなものだった。上海では何も制限されていなかった。人生は明るく、華やかで、お祭のようだった。懐具合さえ許せば食べ物も飲み物もニューヨーク同様豊富で、しかも値段は安かった。バー、ホテルのボールルーム、娼家やキャバレーは歓楽を追う酔っ払いで満員だった。暖房設備も機能していたし、トイレも水洗で、タクシーは溢れる程走っていた。
人々は乞食が群がる街路の事、何千何万もの主にドイツやポーランドから逃れて来た落ち窪んだ目のユダヤ人達や、もっと以前の十月革命で上海に逃げて来たまま、その日暮しを続けている2万以上の白系ロシア人の事も勿論忘れていた。外国人の治外法権による共同租界を管轄している上海公務局の米倉庫の前で、もみあっている飢えた中国人群集が時々起こす暴動の事は気にしないか、又は完全に忘れればいいと考えていた。殆ど病的な享楽的雰囲気と浪費の甚だしい都会生活に浸る方が楽しいので、醜い事や嫌な事は忘れるのである。これは切迫した不幸な運命に対する防御心理とでもいうのだろうか。1941年の夏まで、我々の多くはそうだと思い込んでいた。最悪の事態が本当に来ると思ってはいなかったが、用意をしておくに越したことはないと、我々は考えていた。
東京で外務省の情報次長であった頃に知り合った堀ともかず(公一?)氏が上海大使館情報部長として着任していた。西も上海にいて以前同様親しくつきあった。そして、彼の行動は以前ほどには謎深くはなかった。彼がどこで働きどこに住んでいるか、ここでは私は知っていたのである。軍の報道部長は秋山くにお(秋男?)中佐で、松田中尉と宇野が彼の補佐をしていた。宇野は私の故郷の町で生まれた二世である。松田はミズーリー大学新聞学科の出身だった。秋山中佐はこれ以上に有能なスポークスマンを求め得なかっただろう。彼らは実際、非常に優秀な補佐官であった。記者会見は毎度愉快な出来事で、日本側はいつも上等のウィスキーで接待してくれた。そして毎回、中国の奥地のどこかで中国軍を粉砕したと発表した。スポークスマンはただ時々極東における米国の干渉に対し遠まわしに抗議するだけであった。しかし、東京及びワシントンからは日米関係悪化の報が絶えず届いていた。
いざ戦争となると、我々上海にいるものは東京にいる時ほど絶望的でないにしても、捕虜になるのは当然だった。上海の周囲は黄浦江に面した以外は鉄条網と日本軍の歩哨で取り囲まれていた。その対岸は浦東で、これも日本側が警備していた。上海で捕まった場合、我々が逃れる道はただひとつ。それは日本の歩哨線を突破して反対側の自由中国に向かう事であった。この線を通り抜ける手引きができるのは中国のゲリラだけである。適当なゲリラを探し当てるのは雲をつかむ程に難しかった。我々は色々な方法を計画すると同時に、可能性のある間に我々の立ち去る時を知らせてくれる暗示を求めて、日本の動静に目をこらしていた。
当時はロバート・ペッパー・マーティンがUPの上海支局長であった。1941年の夏と秋、米国領事館のあるデベロップメントビルの広い屋上アパートを二人で借りた。ここは大きなカクテルパーティーには理想的で、我々は将来を視野に入れて人々を接待した。堀も西と共にしばしばカクテルや、土曜の夜のポーカーを楽しむ為に立ち寄った。軍報道部長の秋山が松田・宇野両名を衛星のように従えて訪れるのも稀ではなかった。日本管理下の鉄道や空路で旅行するのに軍の許可が必要な場合には彼らは通行証を発行してくれた。このような旅行時には上海脱出の手助けをしてくれそうな中国人を必死に物色したが、実際にそういう人材に全くの偶然が原因で出会えたのは上海郊外に出かけた時であった。
ある日曜の朝、アメリカ人の友人で長年家族と共に上海に暮らして、いくつもの中国方言とフランス語を流暢に話し、かつ少々のロシア語も話すメアリー・ベル嬢とサイクリングに出かけた。この日、我々はいつもより遠出して、そしてこの町からの脱出を成功させてくれそうな中国人と出くわしたのだ。ベル嬢の機転と珍しい言語にも堪能な才能がこの中国人と出会わせて、その後の種々の打ち合わせと交渉に大きな役割を果たしたことは言うまでもない。そこで名前を公開できないこの中国人と、戦争が始まって我々が捕虜となりそうな状態におかれた場合に落ち合う場所その他を取り決めたのである。
第二章: 日本軍進駐
今世紀最大のホットニュースが私の掌中に落ちたのは1941年12月4日夜(上海時間)の事だった。我々はニューヨークに速報を入れたが、その記事はワシントンで「確認不能」とボツにされた。数日後、私の記事の真実性は日本軍によるパール・ハーバー攻撃で裏付けられた。
それはこんな風に始まった。
私は何ヶ月もの間、西に会っていなかった。それはアパートの契約期限が来たので、あけ渡しの前日にマーティンと私が送別のどんちゃん騒ぎを催した時以来の事だった。堀もその晩来ていたが、それから数週間後、彼は東京に帰任して外務省の情報部長に就任し、その後は内閣情報部長にまで昇進した。
そのアパートを引き払ってから、マーティンと私は別々の住居に住むようになった。彼は立派なボウリング施設があるからとアメリカン・クラブに、私は水泳プールがあるので外人YMCAに。
余りに長い間西をみかけないので、あるいは彼も東京に帰ったのではないかとさえ思っていた。だから、12月4日の晩、彼がエドワード七世路のUPの支局にひょっこり入って来た時、私は驚いた。私が夜番のカール・エスケランドが出勤して来るのを待っている時、支局の扉が開いて西が現れたのだ。以前は常に笑みを浮かべていた彼の顔は無表情で、その声は疲れ果てていた。
「マック、我々が長い間捜していた極上のウオッカをとうとう見つけたぞ」と、彼は言った。
だが、ウオッカは上海に水のように溢れていて、望みさえすればその中で溺れ死ねる機会はいくらでもあり、我々のどちらも、特別なウオッカを探していた事実がない事を西は十分知っていたはずだ。明らかに彼の心中に何かあって、私をどこかに連れ出して、二人きりで話がしたかったに違いない。そこで私はペッパー・マーティンに電話して、何か事件が起ったらしいと説明し、カールが来るまで支局の番をしていてくれるように頼んだ。
西と私は階段を3階分降りて冷たい夜の街に出た。歩道に立って人力車を捕まえる為にエドワード七世路の上下を見渡して、私は上海の空気を深く吸った。それが新鮮だからとか、元気をつけてくれるからではなくて、色々なものを十分味わいたかったのである。
西は新しい煙草を取り出して、今捨てようとしている煙草から火をつけた。手が震えていた。彼は極度に神経質で、心ここにあらずという風に見えた。いつもの彼とは違って無口で、吐息とも舌打ちともつかぬ、しかし時には言葉同様に意味をなす事もある日本人独特のため息を連発した。
呼べばすぐ来る範囲にリキシャは一台もいなかった。我々はアメリカ資本の反日新聞社で、鉄条網のバリケードとフランス系安南人の警官が乗っている装甲車で警備されている上海イヴニングポスト・アンド・マーキュリーを通り過ぎて、通称「血まみれ小路」として知られているChu Pao San小路の方にぶらぶら歩いた。そこには車が沢山いた。西が車夫に指示して、それから我々は約半時間、私のまだ知らなかった狭い路地の曲がり角をガタガタ揺られて走っていった。「止まってくれ」と西が言って、我々が食事している間そこらで腹ごしらえをして待っているようにと、車夫達に心づけを渡した。
我々はその細い小路を歩いて、一軒のみすぼらしい建物に着いた。紙と木で出来た扉から入ると、その外観とは正反対に、明るく照らされて、日本人が巧妙に仕立てる鉢植えの小さな植木で飾られた小さいが趣味のよい中庭があった。和服を着た仲居が二人、深くお辞儀をして我々が脱ごうとする靴に手を差し出して脱がせてくれた。三人目の仲居が軟らかいフェルトのスリッパを手渡した。楽しそうに微笑みながら、女将が2階の個室に案内した。
我々はオーバーコートを脱いで、日本人が畳と呼ぶマットの床に胡坐を組んで砂の一杯入った陶器の容器を間に、向かい合って座った。その砂の上には炭が熾っている。火鉢である。
上海という国際都市の真ん中にいるというより、鎌倉にでも帰って来たような気分がした。女将が低いテーブルを持って再び現れ、これを火鉢の傍に置いた。その卓台の為に我々は場所をあけた。そして女将が私の前に例の小さな杯を置いて、今まさに温めた日本酒を注ごうとした時、西がそれを止め、ベルトを緩めてズボンの中から瓶を取り出した。そして勝利の雄たけびでも上げるように、大声で言った。
「どうだ、嘘じゃないだろう。これはウオッカだ。恐らく君がこれまでに味わった事のない最上で希少な銘柄だ」
西は杯を満たした。お互いに杯を高く差し上げると、西が乾杯の辞を述べた。
「我々の友情の為に。今後どんな嵐が吹き荒ぼうと」
彼の口は微笑んでいなかった。その表情は実に真剣で、杯を飲み干す手は震えていた。酒盛りの始まりに相応しい楽しさはなかった。確かに、西の心中に何物かがわだかまっているのだ。彼は激情を押さえようとしていた。
「食事がおわったら」彼は言った。「君に話す」。
そして急に泣き出した。声は上げずに、しかし本当に泣いていた。涙はその両頬を伝って落ちた。二度続けて鼈甲製の自分の杯にウオッカをついで、息もつがずに飲み干した。二度とも私の杯には注がなかった。これは常に定規で測ったように几帳面な彼には考えられない事であった。部屋に仲居が入って来た時、西の涙は泣き始めた時と同じように、急に止まった。
火鉢の上にかけられた深い鍋の中で、紙のように薄く切られた牛肉や色々の野菜が一緒に煮込まれる。我々はすき焼きを箸を使って食べた。仲居は次々に新しい具材を鍋に補給し、我々はこの楽しい混合鍋の中に箸をつっこんで好みの煮え具合のものを選んで食べるのだ。食事の後、仲居がテーブルを片付けている間、我々は又数杯の酒を飲んだ。仲居が去った後で西は再びウオッカの瓶を取り出し、二人分の杯を満たしてから瓶にコルク栓を閉めた。そうして、彼はテーブルにもたれかかった。
「この店は僕の古い友達が経営している」と切り出した。「壁に耳は無いが、あったとしても俺は友人を信頼しているし、どっちみち彼にも他の者にも英語はわからない。さあ、もう一回我々の友情に乾杯しよう。これからどんな事態が発生しても、君は俺を友人の数に数えると約束してくれ」。
私は誓った。そして我々は杯を干した。
「俺は大変困惑している。そして非常に心が痛む」彼は続けた。「何故なら、今宵を期してワシントンでもロンドンでも、米国又は英国内の日本大使館や領事館で暗号表が処分されているのだ。日本の各領事館に暗号機密書類や機械を焼却するようにという命令が下された」。
私は凍りついた。という表現は不正確ではあるが、彼の言葉を聴いた時の気持を表すのに一番近いと思う。もし彼が本当の事を言っていて、私にそれを漏らした事が明るみに出た場合、彼は彼自身の命を危険にさらす事になる。逆に、もし彼の言う事が嘘であったとしたら(私は嘘ではないと確信していたが)、彼は危険な火遊びをしているに他ならない。それから、彼は両手を振りながら、別の、私を仰天させる事を言った。
「日本人の大馬鹿者。軍人のくそったれ。大マヌケ。日本はアメリカに潰される」
私は早くこの席を立って支局に帰って考えたかった。ペッパーとも相談してこの生死にかかわる通信をニューヨークに届けられる何らかの暗号手段を講じなければと思った。何故なら当時上海から送信されるすべての通信は日本側に傍聴されていたからである。しかし西は酔いつぶれようとしていた。それは酒の力で数々の悲しみや憂さを紛らして、来るべき戦争の事を忘れ去りたいと願っているからであろう。この戦争は彼が私に語ったところによれば、「我々が今飲んでいる事が夢でなく確かな現実であるのと同じく、それが起る事には疑いの余地がない」のである。
彼が最もひどく罵ったのは、戦争そのものの恐怖よりも、制服を着なければならないという、彼にとってはすこぶる厄介な運命であった。
「だって君は軍人じゃなくて文民だから、軍服を着る必要はなかろう」と私は言った。
彼はその返事に「いや、着なきゃならん。軍の制服ではないが、愛国心を表す国民服というものだ。もう既に受け取った。上海に届いているんだ。ひどいもんだ」。
やっとそのすき焼屋を出た後も、西は蛭のように私にへばりついて離れなかった。支局に連れて来るしか仕方がなかった。西のアルコール許容量は極端に小さかったので、一杯でたちまち顔は真っ赤になった。二杯で目は潤み、三杯飲むと眠気を催す。我々が支局にたどりつくかなり前から、彼は今にも眠りこけそうな状態だった。支局にはカウチがあり、西はそこに座った。ペッパーが我々を待っていた。私は西の肩を揺さぶった。
「西」私は彼に尋ねた。「ペッパーに話してもいいか?銀行から金を引き出しておかねばならん」。
西は梟のような感じでちょっと考えて、そして了承してくれた。
「ペッパーか。いいだろう」と彼は言った。「戦争だ。日本人の大馬鹿が!」
我々は彼をカウチの上にそっと寝かせた。それから夜が明けるまで、記事を書いて、発信して、返信を待った。遂に届いた返信は次のようなものだった。
ワシントンはその報道を否定している。
我々の世代最大のホットニュースに対する本社編集部の返答はこれだけだった。日本の出先公館が日米戦争に備えて外交機密書類を焼却中という重大報道に関して、である*。
*その後の出来事は西が私に語った事は真実であった事を立証している。パールハーバー調査期間 中の証言は、我海軍省は12月6日国務省に、駐ワシントン日本大使館が昨夜即ち12月5日、暗号 及び解読書を償却せる旨通達したと通報した。西が上海で私に知らせてくれた時間はちょうどワシン トンでは12月4日の早朝に当っている。いずれにせよ、西はこの焼却事件を予知していたのである。
時は刻々と迫りつつあった。ジャパン・タイムズが一年余りも前にその一面社説で予言したように、太平洋地域における白人の全盛時代は終わりに近づいていた。少なくとも暫定的には。今や日本人は白人を東亜、フィリピン、マレー及び東インド諸島から追い出そうとしているのであった。西はそう言った。又彼は日本が中途で挫折すると断定して、英米が盛り返してくるに違いないと付け加えた。しかし、我々は彼を全面的に信じる事はできなかった。戦争?確かに戦争はいつか起る情勢にあった。しかし我々だっていつかは死ぬ運命にあるではないか。それでも、死とは自分自身にとっては漠然とした凡そ縁遠い出来事であって、同時にどこかの誰かには常に起りつつある身近な現象である。いずれにせよ、我々は銀行預金を引き出すことに決めた。近しい友人達にもそうする事を勧めた。彼らは直ちに警告に従ったが、我々自身は遅れをとった。
日曜日にワシントンから至急電を受け取った。ルーズベルト大統領は戦争回避の目的をもって直接日本の天皇に文書を送るというのだ。私はペッパーに電話した。
「銀行から預金を引き出したか?」
「いや、まだだ。月曜の朝一番にやるよ」
私は例の電報を彼に読んで聞かせた。我々の考えは同じであった。もし日本の軍部が行動を起こすべく決心しているのなら、軍はルーズベルト大統領の親書を事が始まる前に天皇に伝達するような真似は断じてしない。今こそその時であった。しかし我々はその為に分別を失ったりはしなかった。その晩は二人とも女友達とのデートがあって出かけた。私は翌朝出番だったので早く帰宅した。それは上海時間で12月8日月曜日。ハワイ及びアメリカでは12月7日日曜日の事であった。
月曜の朝3時半頃、私の部屋の係をしていた中国人のボーイが私を揺り起こした。
「電話、だんな」彼は言った。「電話」。
起き上がりながら、私は遠くの方でものすごい音がするのに気付いた。砲撃だ。大砲の音の間に機関銃の音が混じっていた。黄浦江(Whangpoo)は火の海と化して、夜空を照らし、大砲はまだ唸っていた。私は廊下を走って電話にかけつけた。
「黄浦江上で盛んに撃ち合いが始まっているので、お知らせしようと思いました」と電話の声は言った。
私は支局に電話を入れた。エスケランドが出た。彼は殆ど口を利くこともできなかった。
「日本は英米に宣戦を布告したよ」と彼は叫んだ。
「何でわかった?」
彼は怒って「どうしてわかったかって?たった今外灘を歩いて家に帰るところだったんだ。日本の駆逐艦が二隻アメリカの砲艦ウェイクを拿捕して、イギリスの砲艦ペタレルを砲撃したのさ。そのイギリス艦は燃えて今沈没しているところだ。この窓から見えるんだぞ」。
「しかし、それだけで日本が米英に宣戦布告したとは言い切れないじゃないか」と分別がましく私は言った。「ニューヨークに、日本の駆逐艦2隻が英艦を沈没させた事件だけを打電しろ。宣戦布告には触れるな」
カールの答えはとても書く事ができないほどお粗末だった。ペッパーに知らせたかと尋ねたが、カールは意味のない罵声を浴びせるだけだった。当時を振り返ると、彼を責める気にはなれないが。私は
「落ち着け。ペッパーに電話したのか?」と言った。
「今来たよ。ちょうどドアから入って来た」。
ペッパーが替って電話に出た。
「どうも本物らしい」と彼は言った。「しかし、日本側から言質を取った方がいいな。君、やってくれるか?」と彼は言った。
私は日本軍報道部長の秋山中佐に電話を入れた。彼の副官の松田中尉が応対した。彼の返答はこうだった。砲撃の事は寝耳に水だ。日本海軍に聞いてみたらどうかね?
海軍報道部長に電話をかけたが、彼も砲撃について何も知らないと否定した。
「しかし」と私は続けた。「貴方の窓の下で起っている事件ですよ」と。
彼の声は又もや冷たく答えた。「陸軍にお尋ねになるようお勧めします」。
私は掘の後任に来た新しい大使館の情報部長に電話した。新任部長は応答できなかった。
「彼はそこにいますか?」と私は尋ねた。
「はい。しかし只今大変多忙で電話には出られません」
私は西が滞在するホテルに電話を入れた。が、彼も事務所に行っていた。
午前3時半。役人という役人は全員、事務所に行っていた。まるで昼日中ででもあるように。そして、そのうちの誰も、河で起っている砲撃が何かを知らないのである。
日本領事館にも電話をかけた。ここでも誰も何も知らなかった。
「大塩さん、聞いてくれ」私は遂に一人の役人に懇願した。「貴方は貴方の事務所にいる。松田さんも事務所にいる。誰もかれも皆自分の事務所に出勤している。今何時かご存知でしょう?まだ朝の4時にもなっていない。日本の駆逐艦2隻が英国の砲艦1隻を貴方の窓のすぐ前の河で沈めているのに、貴方は何もご存じないとおっしゃる。誰も何も知らない。全上海の人間が知っているのに知らないのは、日本の領事館と陸軍と海軍だけだというんですか」。
「マクドゥーガルさん、お気の毒だが私は何も知らない」
「大塩!」私は遂に怒鳴った。「貴方の海軍がウェークに乗り込み、ペタレルを撃沈した事は既にニューヨークに打電した。今もう一本の記事を送るところだ。本文を読みますよ。カッコ日本領事館は、日本が米国と戦闘状態に入る旨宣言したカッコ閉じる。貴方は否定しますか?」
「疑う余地も無くアメリカは既に知っているのでしょう」。「遺憾に思います」と、彼はつぶやいた。
これを聞いて私は打ちのめされたが、もうひとつ試してみたいと思い、松田を呼び出した。「松田中尉、誰も何も知らない。例の2隻の艦長達自身でさえ、だ。しかし大塩大尉は、アメリカはもう日本が米国に対して宣戦布告した事を知っているだろうと認めましたよ。どうです?」
長い沈黙があった。松田がそっと電話を切ったのかと思った。しかしそうではなかった。とうとう彼は静かに言った。
「英国も、だ」。それから彼は付け加えて言った。「どうも大変お気の毒な次第である。では、これで」。
その頃にはもう相当数の人間が8階の電話の周りに集まって来て、私の電話を聞いていた。「日本は米英と戦争状態に入った」と私は彼らに向き直って話した。
聞こえたに違いないが、聞きたいとも信じたいとも思わなかったようだ。彼らはパジャマや部屋着のままでそわそわと落ち着かなかった。そんな事が本当であるはずはない。赤いパジャマを着て太った男が、もったいぶって、喉をエヘンエヘンと何度も鳴らしながら言った。
「ただの事変だよ、絶対に。ただの事変だ。一日か二日で終る。いつもそうだから」。
その時には夜は既に静まって、黄浦江は元の暗闇に戻っていた。私は急いで服を着て、地上階までエレベーターで降りた。YMCAの歴史始まって以来初めて、エレベーターボーイが起きて働いていた。又、これも初めての事だが、こんな早朝から建物の外には車夫が沢山集まって来ていた。彼らは夜明け前の仕事をかぎつけて来たに違いなかった。私は一番頑丈そうなのを選んで「バンド(外灘)、2ドル、早く、急げ」と叫んだ。するとこの男はBubbling Well Road を韋駄天のように走り出した。
支局にはもうペッパー、カール、それにカールの中国人美人妻であるチーユンが来ていた。ボヤボヤしてるとチーユンに負けるぞとペッパーと私はよくカールを冷やかしたものだった。両親ともアメリカの大学教育を受けた裕福な中国人家庭に育ったチーユンの英語は話す事も書く事も、アメリカ人並みだった。デンマーク生れのカールより、チーユンはずっとアメリカ人らしかった。
ペッパーとカールは二人とも既に砲艦ペタレル沈没の目撃記事を送信していた。ペッパーの住んでいたアメリカンクラブから外灘通まではほんの少しの距離なので、彼の長い足は砲艦の沈む前に彼をその現場に運んだのだ。それから彼は大急ぎで支局に来て指揮を執り始めたという訳である。私が支局にたどり着いた時、ちょうど彼はニューヨーク向けの記事を書き終わるところだった。しかし、記事を書くのとこれを送信するのとは全く別の仕事であった。アメリカが所有するプレス・ワイヤレス以外の通信線はどれも皆日本の統制管理化におかれていたからである。
「プレス・ワイヤレスはごったがえしているだろうから、俺が行って通信係が我々の記事を発信するのをこの目で見届けてくる」と、ペッパーが申し出た。
記事の発信が電信局で滞るかもしれないという彼の予感は余りにも的中しすぎていた。先着順などと言う事は上海の中国人電信技士には通用しないルールである。ペッパーがプレス・ワイヤレスの発信室に入ると、真っ先に通信手の手に触れるはずの我々の記事が、他の特派員からずっと後に届けられ山と積まれた電文の一番下になっているのを発見したという。技師達は段々高く積み重ねられてゆく記事の上から順に手をつけているだけの事である。ペッパーはすぐにそれをひっくり返して順番を直した。
カールとチーユンが商店街をうろつきまわって次の日本の動向を探っている間、私は支局に残っていた。まもなくカールから電話が入った。
「海兵が上陸した」
「何?」
「海兵隊が上陸したと言ったんだ」とカールの声が震えている。「日本の海兵隊がガーデンブリッジを渡って野戦電話線を張りながらやって来る」。ここでカールの声はいつもの笑い声に戻った。
ガーデンブリッジは外灘の蘇州川に懸っていて、共同租界を日本の支配する虹橋(Hongkew)地区と英米側に二分していた。ガーデンブリッジ及びその他の蘇州川にかけられた橋を渡って、日本の陸軍と海軍は共同租界を接収するために行進中であった。夜が明けるにつれて日本の陸海軍人は商業中心地にある町々の建物を次から次へと組織的に占拠していった。租界は遂にいくつもの地域に分けられて、その間の通行を防ぐために鉄条網のバリケードが所々に設けられた。英米租界はフランス租界及び紅虹から完全に遮断された。
各特派員は時間と戦っていた。日本軍が電報局やプレス・ワイヤレスを占拠して通信を遮断するまでの時とである。午前8時頃、私達の支局のテレタイプが、この日最初の入電テープに孔をあけて動き出した。即ち、ジャップがパールハーバーを攻撃している!
「これは本物だ」とペッパーは言った。「上海から退去する許可をニューヨークに貰った方がいいな」。
そこで我々は至急扱いで問い合わせの電報を打った。返事はとうとう来なかった。何故なら、上海時間の午前10時15分には、日本軍がプレス・ワイヤレスの送信機を押さえたからである。
上海の空は正午頃まで数え切れない多くの火事の灰と煙の為にぼんやりと曇っていた。中国の銀行は何百万ドルとも知れぬ重慶戦票を焼却した。アメリカと英国及び中国の工場と事務所はそれぞれの記録を燃やした。我々は西の警告のあった晩に記録を焼却していた。残しておいたのは、古くからある分厚いノートだけだった。電信略号帳である。この略号を使えば、機密暗号手引書によるよりももっと語数を節約して送信できる手段であった。しかし、これも焼却することに決めた。
電電ビルはエドワード七世路を隔ててUP支局の真向かいにあった。私が例の電信略号帳を燃やそうと洗面所に駆け込んだ時には、日本軍はもう電電ビル内に来ていた。このノートにはなかなか火がつかなかった。仕方なく私はその上にライターの油を振りかけてマッチをもう一本摺った。パッと大きい炎が燃え上がったかと思うと、私の眉毛が燃えてトイレの便座に火がついた。私は火傷の痛みで叫び声を上げながら、ノートを便器の中に放り込んだ。木製の便座が勢いよく燃えて、煙と炎が外の廊下に流れ出し、周りの事務所にいた人達が狂気のように騒ぎ出したので、私は急いで洗面所を出た。結局、わが社の中国人スタッフが水をかけて炎を消したが、ついでに彼は水に浸って煙で真っ黒になりながら燃え切っていない略号帳を救い出してしまった。
私の顔に絶望的な表情を読み取ったのだろう。そのうちの一人が「ミスター・マック、大丈夫。我々がやります」と言った。私は彼らについて屋上に上った。そこには小さな焼却炉があった。仕事はすぐに片付いた。
昼頃に電話が鳴った。それは上海市議会の日本人議員で、ペッパーの友人からだった。
「君とマーティンはもはや敵国人だ」と彼は申し訳なさそうに照れ笑いしながら言った。「全ての敵国人は街中を歩く場合、又はバリケードを通り抜ける場合は日本軍憲兵隊発行の通行証を所持しなければならない。もしペッパーが私の事務所に今すぐ来てくれるなら、通行証を2枚発行する」
ペッパーは上海で発行された通行証の最初のひとかたまりのうちの2枚を受け取ってきた。彼はその議員の事務所に積んである発行待ちの何千枚もの通行証を見たという。それらは日本の上海占領という緊急事態の為に何日も前に印刷されていたものだった。
すべて占領は手際よく計画されていた。どの建物が陸軍又は海軍の司令部としての使用目的に最適か、組織的に接収されていった。アメリカン・クラブの建物は最初に接収されたもののひとつだった。クラブに住んでいた者は住居引渡しに2時間の猶予しか与えられなかった。ペッパーと私は一箇所にいられるようにメトロポールホテルの一室を手に入れた。このホテルには米国領事館員が既に日本側によって軟禁されていた。館員達は監視付きでホテルの二つの階の部屋に住んでいた。
私達がくじ引きで当てた部屋は監視のない階にあった。通行証のお陰で、町中のどこでも自由に歩けた。しかし、市の周辺には鉄条網を張ったバリケードが張り巡らされ、日本軍と南京傀儡政府軍が警邏に当っていた。上海はもう牢獄と化していた。日本側の準備が出来次第にアメリカ人、イギリス人、それにオランダ人を家庭から収容所に移せたろうし、そうするはずだったろう。
しかし、日本側はそんな予定は全然ないと否定した。連合国側の実業家や民間人の指導者達を集めた説明会が招集されて、その場で上海における商取引は平常どおり行われる事になろうと強調された。陸海軍と外務省は共同で毎週記者会見を催して、その席で陸海軍の報道部長及び大使館の情報部長は日本軍の圧倒的勝利を報告し、上海に住む敵国人が抑留される心配はないと発表した。上海は日本が民間の非戦闘員とは戦っていないという事実を全世界に立証するだろうと日本の弁務官達は異口同音に語った。ただ、非枢軸国の国民は憲兵隊に登録して写真付きの身分証明書を受ける事になるだろうが、別に大した問題ではなく、ただそれだけの事であるとも発表された。尚、敵国側居留民の住居変更に関して凡そ次のような主旨の報告があった。何人たりとも憲兵隊の特別許可なく勝手にその住所を変更してはならない。これに違反するものは軍事裁判により処罰される、と。
ホテルの我々の階にも遂に監視員が配置された。彼の任務は我々の出入りの様子を監視する事にあった。が、行動には何の干渉もしなかった。監視人は毎日交代した。ある日我々の知っている男が現れた。軍人ではなくて民間人である。
「今日からずっと俺が君たちの階のお目付け役だ」と彼は言った。「俺の部屋はエレベーターの隣だ。俺は君たちが一日に何度エレベーターを使ったか、部屋を何時間あけたかを報告書に書き込むように言われている」。
「それじゃ君はとっても忙しくなるだろうぜ」と我々は言った。
「何てこった」と彼は答えて、「睡眠不足の埋め合わせをするつもりさ」と続けた。
そうこうするうちに、古くから日本陸軍と海軍の間に巣食っていた対抗意識が公衆の前にはっきり現れて来た。海軍側はもう既に上海の目ぼしい商店、倉庫、工場を点検して『大日本帝国海軍』の名の下に封印し、管下に置いていた。数日すると陸軍が封印された建物を点検しなおして『海軍』の文字を塗りつぶして『陸軍』と書き直した。又2~3日すると海軍が回って来て『陸軍』を消して『海軍』と書き換える。二週間目には両者の間に休戦協定が結ばれて、最終的にはペンキ舞台の手で『大日本帝国陸海軍連合司令部の命により』と書き直されてあった。
同じく占領後2週間たつと英米人が次々と姿を消し始めた。まず最初はチャイナ・ウィークリー・レビューの主筆、J.B.パウエル。次がニューヨーク・ヘラルド・トリビューンのヴィクター・キーンだった。彼らが新聞関係及び特派員仲間で一番最初に連行された人だった。
キーンは蘇州川の虹口側にあるビルのアパートに住んでいた。彼はバリケードを通って自分のアパートに帰れるようになるまでの間の数日我々の部屋に泊っていた。そして遂に川を渡って帰ったのだ。ある夜明け前、彼の中国人使用人が我々の部屋のドアを叩いた。憲兵が5時と6時の間にヴィクターを連れ去ったと言うのだ。ヴィックは辛うじて走り書きのメモを我々に残していた。「ジャップが来た」。
その日午後の記者会見の席で、ペッパーはキーンが何故捕らわれたのか、どこにいるのかを3人のスポークスマンに尋ねたが、彼らは誰も答えようとはしなかった。我々は浮き足立ち始めた。今に特派員は一人残らず収容されて、脱出できなくなるのではないかと心配したのだ。数ヶ月前に取り決めておいたゲリラとの約束が我々の脱出を可能にする唯一の望みだが、市内のゲリラとの連絡には伝令が来るのを待たねばならなかった。手遅れにならないうちに連絡がつくようにと祈るほかにはなす術もなかったのだ。
以前天津のUPにいて、北京語のうまいフランシス・リーが同行することになっていた。通訳としての彼の手腕は計り知れないものがあったろう。連絡を待つ間に我々は脱出旅行に必要な品を準備した。地図、磁石、懐中電灯、板チョコ、トランプ、等。
クリスマスの朝、西が我々の部屋に遣ってきた。「君たちには多分これが必要だろう。俺のクリスマスプレゼントだと思ってくれ」と、米ドルで90ドルを渡してくれた。
我々が脱出しようとしていることを西が虫の知らせで知って助けようとしてくれたのか、私にはわからない。しかし、あの時我々が必要だった以上に、いずれ西にも金が必要になるだろうし、どのみち返済できる見通しはなかった。それで「どうせ君のところの憲兵隊のヤツが我々から取り上げて持って行くんだから」と西を説得してライカのカメラを無理やり押し付けた。カメラを引き渡せとの命令が既に出ていたのだ。西は戦争が終ったらライカは返すと約束した。
我々は彼の手をしっかりと握り、彼がそれまでに寄せてくれた数々の助力と行為と友情に対して深く感謝した。彼はこみ上げて来た激情を1~2度音を立てて呑み込んで、そして踵を返して部屋を出て行った。
それ以来、彼を見ていない。
彼と別れた日の午後、ノース・チャイナ・デイリー・ニューズのパーシー・フィンチが彼のアパートでクリスマスパーティーを催した。クリスチャン・サイエンス・モニターの特派員であるフレデリック・B.オッパー、I.N.S.社のM.C.フォード、ペッパーと私、その他2~3人で、パーシーが苦心してかき集めた食べ物を残さず平らげ、彼の酒も我々のウィスキーも最後の一滴まで飲み干して皆で思い出せる歌を全部歌った。このパーティーはペッパーと私にとっては壮行会のようなものだった。勿論他の連中は我々二人の計画については何も知らなかった。
その夜、我々はクリスマスディナーに招待されていた。絶好の機会であったのと、彼の事が好きでもあったので、我々は階の監視員に一緒に来ないかと誘ってみた。彼は非常に喜んだ。彼が誰かにクリスマスのディナーに誘われたのはこの時が最初だったろうと思う。クリスマスは日本のお祭ではないからだ。真夜中を少々過ぎた頃、クリスマスにつきもののエッグノッグをしこたま楽しんだ彼をペッパーと二人で彼の家に送り届けた。家と言ってもホテルのエレベーター脇の部屋だが。彼がベッドに飛び込んだのを見届けて、我々は自分達の部屋に戻った。その夜彼は監視の役には立たなかった。
ドアを叩く音で我々は目を覚ました。私の心臓はバクバク音をたてて、まるで脊椎を鼠が上ったり降りたりしているようだった。我々が脱出する前に憲兵隊がやって来たに違いないと思った。しかし、それはフランシス・リーだった。
「君たちのゲリラ連絡係が俺のところに来ている」フランシスは言った。「ここへ来るのを怖がっているんだ。彼が言うには我々がバリケードを抜け出すには今すぐ、夜明け前までに出発せねばならないとさ」。
これは我々の金策計画には丸一日早かった。その次の日に金を借りられる算段が出来ていたのだ。我々の手元には西がくれた90ドルしかないのに、目指す重慶は1500マイルもの彼方なのだ。だといって、今やるか、それとも諦めるかの二つしか選択はない。遅れをとる事はできなかった。カールとチーユンは一週間前に上海を離れていた。カールは中立国のデンマーク人で、彼女は中国人なので、Hangchow まで汽車で逃れる便宜が与えられたのだ。これには表向きはチーユンの健康状態を理由に申請された脱出だった。チーユンは妊娠していたのである。彼らの計画は、Hangchow からはHanchow 湾に流れ込んでいる川を渡って自由中国へ逃げ込むというものだった。
この時までには、彼らが行方不明になっているか、あるいは Hangchow で何らかの危険に遭遇しているかのか全くわからなかった。もしそういう事になっていれば、これは他のU.P.特派員の今後にも影響を及ぼす事になる。我々は即刻出発する事に決めた。
ところで、我々は朝のこんな時間にでも金を貸してくれるかもしれない人がただ一人上海にいる事を思い出した。時間は殆ど午前4時だった。
「君は家で待っていてくれ。そこに行くから」と我々はフランシスに告げた。
ペッパーと私は急いで着替えて、煙草や板チョコをポケットに詰め込んだ。普段着を着て、何も持たずに行かねばならない。こんなとんでもない時間に何人もの見張りをすり抜けて行くのだ。疑われそうなものは何一つ持てなかった。
監視人の部屋のドアは閉っていた。我々はエレベーターでロビー階に下りた。銃剣を持った日本の兵隊がホテルの出入り口を塞いでいた。我々は微笑みながら機械的に会釈してまっすぐに彼の方に歩いた。歩哨は我々に目を留めたが何も言わずに道をあけた。多分これまでに彼は我々の奇妙な行動に慣れていたのだろう。手を挙げてリキシャを2台止めて、ある教会の方へ走らせた。神父様から金を借りようというのだ。教会まで数ブロックのところでリキシャを帰し、そこからの残りの距離は歩いた。神父様を起こして、そして頼んだ。
「神父様、我々には500ドルが必要です。その理由は申し上げられません。お助けいただけますか?」
「さて、青年達よ」、神父様はニッコリ笑った。「ここにあるのは全部クリスマスの献金です。お持ちなさい」。
彼は何も聞かなかった。我々は献金の浄財と共に彼の祝福を受けて出発した。
リーはその教会から数マイル離れたところに住んでいた。教会のあたりにリキシャはなく、しかし他の交通手段もなかったので、我々には歩くしか方法がなかった。彼の家に着く前に陽は高く上っていた。ゲリラはそれが気に食わなかった。こんな白昼では、彼の目論見通りに我々を脱出させる事はできない。他の脱出路をとるしかない。つまり、我々はフランス疎開の要所々々に築かれたバリケードで監視の目を光らせている歩哨達をハッタリでごまかして交通遮断網をくぐりぬけ、上海の金持ち達が別荘を構える Hangjao 地区に入る。Hangjiao 地区にも監視の目はあったが、案内人の説明では、もし我々がその地区の近くの運河の堤防の両側にある小部落にたどりつけさえしたら、しばらくは安全である。そこで落ち合おうと言って彼は姿を消してしまった。
さあ、後は我々次第という事になった。