日本のフォルケ・ホイスコーレについて語るとき、忘れてはならないのが黒沢酉蔵翁である。雪印乳業設立者の一人だった。昭和57年、95歳まで生きて、農村高等学校としての酪農学園(現酪農学園大学)を経営し、農村青年の育成に努めた。
 雪印がもともとは北海道の協同組合から発展したことを知る人は少ない。「人を愛し、土を愛し、神を愛する」というデンマークのグルントヴィの三愛主義を掲げてきたはずの雪印乳業は2003年、回収した古い牛乳を再利用するという前代未聞の不祥事を起こしてしまった。
 黒沢は明治18(1885)年、茨城県久慈郡の寒村に生まれた。青年時代、足尾銅山問題を追求していた田中正造に私淑し、中学卒業後、縁があって札幌郊外の宇都宮牧場に入った。黒沢酉蔵の酪農家としての長い一生は、ここから始まる。
 牧場主の宇都宮仙太郎は明治18年北海道に渡り、20年にはアメリカに渡りウイスコンシン州立大学で学んで帰国した北海道酪農の草分けだった。当時からデンマークの協同組合的農業手法に注目していて、黒沢は多大な影響を受けた。
 42年、札幌メソジスト教会で洗礼を受け、山鼻に5反歩の土地と牛二頭を借り黒沢牧場を興した。当時は乳業メーカーなどなく牛飼は搾った牛乳を自ら売り歩かなければならなかった。夏は大八車、冬は天秤棒で牛乳を配達した。
 単なる牧場経営から乳業メーカーへの転身は奇しくも1923年の関東大震災の影響だった。大震災後、世界各地から震災見舞いの乳製品が大量に送られてきた。日本政府は乳製品への関税を撤廃しこれに応えたのだが、国産の乳製品は逆に売れ行きが落ち込み国内酪農家は苦境に陥った。
 当時、北海道の畜牛研究会のメンバーだった黒沢は宇都宮氏や佐藤善七氏らと売り先を失った牛乳を買い取り自ら加工しないと北海道の酪農は生きていけないと考え、出資金を募って大正14(1925)年、有限責任北海道製酪販売組合を設立し、バターの加工に乗り出した。会長は宇都宮氏、専務に黒沢が就任し、翌年「雪印」ブランドが誕生した。会社組織になったのは戦後で、1950年に社名が雪印乳業となった。
 黒沢が組合経営と並行して力を入れたのが、農村青年の育成だった。昭和24年、衆院議員だった黒沢がパージされたとき、賀川豊彦が語った言葉が残っている。賀川と黒沢はほぼ同じ年代を生きた。どこで接点があったか分からない。大正12年は関東大震災の年で、まだ農村福音学校は生まれていない。同じキリスト教徒で農村の振興の必要性を感じていた二人だったはずだ。
「私が黒沢氏を知ったのは大正12年頃です。(中略)以来、私が常に主張してきました乳と蜜の流るる村の建設、即ち酪農による美しい農村社会の実現に協力してくれた敬愛する同志です。北海道の酪農が今日の盛況を見るのは黒沢氏を中心とするクリスチャンの数十年の弛まざる犠牲的努力の結果です。(中略)今日思想が混乱する日本で、日本農村の青年を正しい民主的なデンマークのような社会に創り上げるには黒沢氏の如き知と熱のある指導者をおいて他にないと信じます。日本酪農の振興、牛乳及び乳製品を豊富に生産して国民生活の向上をはかるためのその道の権威者・・・(後略)」。

 良牛は良草より、良草は健土より
 http://www.geocities.jp/alfa323japan/kurosawa.htm
 黒沢酉蔵翁
 http://www.across.or.jp/s-amano/ippin/yuuki/siryositu/torizo/torizo.html#1