飛鳥山について書きたい。JR王子駅の西側にある公園のキーワードは「飛鳥」と「王子」である。
 飛鳥山のサクラは八代将軍吉宗がサクラを植えさせ、庶民に開放したところから始まるのだが、この地になぜ「飛鳥」(あすか)の地名があるか。飛鳥 といえば、多くは奈良盆地の飛鳥を思い浮かべるのだと思う。現在、地名としては「明日香村」だが、昭和の大合併までは飛鳥村と表記した。
「飛鳥」の二文字をどうして「あすか」と読ませるにいたったかは実は分かっていない。
 さて飛鳥山である。佐藤俊樹著『桜が創った日本』などによると、元享2年(1322)、当地の武士、豊島影村が紀伊国の守護人に補任され、熊野か ら「飛鳥王子」を勧請して若一王子宮として祀った。神様の名前が地名の「王子」として残り、山の名前として「飛鳥」が根付いたというのだ。
 熊野信仰は平安末期、後白河法皇の時代、頂点に達し、鎌倉時代に「蟻の熊野詣で」という言葉が生まれた。いずれにせよ、相当古い。サクラの名所となるのはそれからさらに400年の年月を必要とした。
 紀伊半島の南部を旅したとき、賀田(かた)という寒村に泊まったことがある。朝、一帯を散歩して「飛鳥神社」という古い社に偶然出会った。川を 遡ったところに飛鳥という在所もあった。なぜこんなところに「飛鳥」があるのか不思議だった。後にインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。
「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀(あすか)神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組 に属していました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」。 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま)) があった」というのだからなぞが解決されたわけではない。
 現在の賀田は単なる漁村だが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた徐福が上陸したとされる波田須(はだす)に近く、神武天皇が大和に入るため上陸したと伝えられる楯ケ崎にも隣接する。神話とロマンの残る地でもある。
 東京都北区王子が、800年前から熊野と深いつながりがあったことを偲ぶだけでも飛鳥山を訪ねる価値があると思うのだが、どうだろう。