グラミン銀行と中ノ郷質庫信用組合
2006年のノーベル平和賞を授章したバングラデシュのムハマド・ユヌスさんが同国で始めた「グラミン銀行」は無担保で貧しい人々に融資する金融だ。すでに融資規模は60億ドルに達するというから大したものである。
1974年、チッタゴン近郊のジョブラ村の竹細工で生計を立てていた女性たちは、丸一日働いて2セントしか稼ぎがなかった。材料を購入するために商人から借金をするから金利負担が大きい。いくら稼いでも金利で持っていかれる。そんな生活を見たユヌスさんが調べると、村の女性たちが借りていたのは27ドルだった。その27ドルを女性たちに貸すことからグラミン銀行は始まった。
無担保で貸す代わりに、5人による互助グループがつくられ、それぞれが他の4人の返済を助ける義務がある。これは連帯責任や連帯保証ではない。にもかかわらず98.9%とほぼ100%に達する驚異的な返済率なのだ。
当時ユヌスさんはチッタゴン大学の経済学の先生だったが、取り立てて新しい発想とはいえなかった。同じような発想は19世紀半ばのドイツで始まっていた。ライフアイゼンという村長が農村部で農民たちに安い金利でお金を貸し始めた。イギリスのロッチデールで始まった消費協同組合の仕組みを工夫したものだった。品川弥二郎は留学先のドイツでこのことを知り、帰国後、産業組合法の設立に尽力した。
80年前、関東大震災後の本所でセツルメント活動を始めた賀川豊彦も同じ発想で庶民金融である中ノ郷質庫信用組合(現中ノ郷信用組合)を設立した。震災後の生活に苦しむ庶民の足元をみて暴利を貪る質屋が多かった中で、滝野川で質屋を開業していた奥堂定蔵が賀川に相談し、協同組合方式で質屋を経営することになった。なんと理事長には当時、明治学院大学の学長だった田川大吉郎が就任した。
当時の貧しい人たちは日計りの生活が常だった。物をつくるにしても、商売をするにしても毎日の仕入れは借金に頼った。朝起きて布団とか鍋釜の類を質屋に入れて金を借り、商売して稼ぎ、夕方にその質草を買い戻すなどという風景がそこらでみられた。
庶民金融といっても今のサラ金とは様相が大部違う。雨が降って仕入れた商品が売れ残りでもすればそれこそ、1日の金利すら払えずに借金が重なることさえあった。
そんな時に、賀川らのつくった中ノ郷質庫信用組合は庶民にとってかけがえのない存在となった。筆者はバングラデシュに行ったこともないし、ユヌスさんと会ったこともないが、ジョブラ村の女性たちも同じような気持ちでユヌスさんの新しい”金貸し”を歓迎したに違いないと信じている。
ユヌスさんが語るビジネス論は賀川の協同組合的経済(Brotherhood Economics)と重なる部分が多い。
文春Buisiness 文春臨時増刊2007年4月4日号に掲載された笹幸恵さんによるユヌスさんのインタビューを拾い読みしてみたい。
「ビジネスと言うと、皆、利益のことしか考えません。そのやり方はアメリカでもアジアでも同じです。しかし、それとは違う形のビジネスがあるのです。利益を得たならば、それを自分のためではなく、社会のために使うというものです」。
「たとえば、あなたが何かの事業で利益を得たとしましょう。それを自分の洋服や車を買うために使ったとしたら、それで終わってしまいます。でも、別の人間に貸したら、そのお金はまだ残っていることになるでしょう。貸しているだけですからね。そして借りた人間は、例えば貧富の差に関係なく教育を受けられるような学校を作るとします。お金持ちの家庭にはきちんと教育費を払ってもらい、貧しい家庭からは少ない額でもいいという仕組みで運営していく。すると、こどもたちが皆、平等に教育を受けることができます」。
「その学校は利益のためでなく、社会全体のために存在する学校と言えるでしょう。あなたが貸したお金は、自分一人のために使われるのではなく、世界中の子どものために有益に「生かされる」のです。これがソーシャル・ビジネスです。そうしたまったく新しい概念の市場を早出することが、世界中で起きているさまざまな問題に対処してきうために必要だと私は考えています」
「人間誰だって欲はあります。いい洋服を着たい、いい車に乗りたい、いい家に住みたい。それは悪いことではありません。でも、その日の食べ物 にも事欠く人間がいることを知って欲しい。社会に適応できないから貧しいのではないのです。お金を得るだけの技術を持っていないから貧しいのではないので す。彼らが貧困から抜け出すことを阻んでいるのは、社会のシステムです」。
ユヌスさんは、銀行だけでなく、携帯電話のレンタル業であるグラミン・フォンやエネルギー企業であるグラミン・シャクティなど事業を拡大している。ソーシャル・ビジネスとしてはグラミン・ダノン・フーズ、グラミン・アイケアなども立ち上げている。バングラデシュでは食べることがまず大切で、目の病気も多いのだ。賀川豊彦が100年前に神戸の葺合新川のスラムに入ったとき必要だったものが、途上国ではいまも必要とされていることを忘れてはならない。