洞爺湖サミットが始まって2日目。警備体制の厳しさばかりが伝わり、サミットの役割がなんなのかわからなくなっている。
 サミットは、オイルショックで疲弊した西側経済をどう建て直すのかをめぐって1975年に先進6カ国がフランスのランブイエに集まったのが始まりだっ た。ベトナム戦争の後遺症からまだ立ち直れないアメリカ、そして経済停滞に陥っていた英仏があり、世界経済のけん引役として日独に期待が集まっていた。西 側がソ連を中心とする社会主義陣営経済とどう対峙するかが課題だった。
 黄金時代は1983年からの5年間。ミッテラン、レーガン、サッチャー、コール、中曽根と役者もそろっていた。日本経済がもっとも輝いていた時代だったこともあり、中曽根さんにとっても檜舞台だったはずだ。
 サミットが変質したのはたぶん1989年だったのだろうと考えている。まず主要テーマに「環境問題」が急浮上した。6月に天安門事件が起こり、日米構造 協議で日米がとげとげしくなった。東ヨーロッパでは「コペルニクス的転換」(ブッシュ前米大統領)が起きていた。つまり社会主義体制の崩壊が始まり、その 年の11月には実際にベルリンの壁が崩壊して、統一ドイツが誕生した。翌年にはイラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が始まる。
 東西冷戦の結果として生まれたサミットはまず対抗すべき陣営を失う。ついで西側の”敵”として「テロ国家」が浮上する。イスラムとの対峙は「文明の衝 突」という概念を生み出し、民主主義国家にとっての地球的対立軸はvs社会主義から、目に見えないvsテロの関係へと質的に転換したのだ。
 社会主義を放棄したソ連はロシアとなり、98年のバーミンガム・サミットから「主要国」の一員としてサミット参加国入りし、サミットはその後に経済発展に成功した中国、インド、ブラジルなどBricsらも包含したそれこそ地球規模の”祭典”と化しつつある。
 洞爺湖サミットの最大の課題は地球温暖化防止に主要国が将来展望を打ち出せるかどうかということであるが、二酸化炭素の排出削減の目標設定では大きな溝 を残したままである。京都議定書が生まれた当時は、先進国だけが排出削減に責任を持っていればよかったが、いまはそうではない。巨大な人口を抱える Bricsの協力なくしては地球環境の問題は解決できない。
 サミットの存在意義は大きく変わった。結束するための敵がいなくなった状態で、まず何のために結束すればいいのかわからなくなっている。テーマも経済だけでは済まされなくなった。環境という途上国であっても無視できない課題をも包含するようになってしまった。
 洞爺湖サミットに限っていえば、役者不在である。エコノミスト誌に「顔の見えないサミット」と揶揄されているが、顔の見えないのは日本だけではない。シラク、ブレア、プーチンは過去の人となり、ブッシュも残すところ1年足らずとなっている。
 世界政治、経済のけん引役がいないというのが、洞爺湖サミットの最大の特色なのだろう。2日目にしてサミットへの失望は早いかもしれないが、後1日しかないのも事実である。