今年1月、インドの首都デリーの出版社より、ヒンディー語版『知ってる、知らない日本』が出版されました。これを受けて母国語であるベンガル語でも出版したいと思い、バングラデシュの首都ダッカで、自営のマンチットロ出版より本書を出版しました。
 インド、バングラデシュの両国では、日本に関する情報が不足しています。今でも経済大国としてのイメージは変わりませんが、さてその他に日本の何を知っ ているかといえば、興味はあるものの、日本の歴史も文化もほとんど知られていないのが現状です。こうした現状をふまえて、日本で過ごした約四半世紀の間に 知った日本人のこと、日本の歴史や文化のことを多くの人に伝えたいという思いから、仕事の合間をみては書いたものをまとめました。
 【プロビール・ビカシュ・シャーカー】
 本書は内容的に三部構成となっています。

 1)日本とベンガル地方の100年の交流史
 日本とベンガル地方の100年の交流史をテーマに、11のエッセイを書きました。日本人にとってインドといえば、未だにベンガル地方(インド西ベンガル 州とバングラデシュ)のイメージが強いのではないでしょうか。岡倉天心とタゴール、頭山満と中村屋そしてビハリ・ボース、東條英機とスバス・チャンドラ・ ボース、パール判事と下中弥三郎など、日本とベンガル地方の交流史に代表されるインド人はすべてベンガル人でした。インドでもバングラデシュでも、そして 日本でもほとんど知られていない、日本とベンガル地方の交流の歴史をまとめました。特に若い世代の人々に読んでもらいたいと思います。

 2)世界でよく知られている日本のこと
  世界で日本がどのようなイーメジでとらえられているかを考え、5つの小論文を書きました。お寿司(米文化)、俳句、広島―長崎、能、時代劇をテーマに、知ってはいても良く知らない日本のことを、インド人やバングラデシュ人に伝えられると思います。

 3)外国人が見て体験した日本とその将来
 日本で過ごした25年間に、私自身が見て体験した、日本に古くからある社会問題や、国際化と日本の将来について考えたことなどを書きました。同和問題、 米国依存の政治、頼りない外交政策や日本に滞在する発展途上国の人々に対する政府および官僚の偏見などを取り上げました。
日本での生活で、多くの日本人の方々に大変お世話なりなりました。その感謝の気持ちを込めて、少しでも恩返しすることができればと思い、インドやバングラデシュが日本を理解し、真の友達となることを心より願って書きました。

 内容
 (1)日本―ベンガル交流の中心は岡倉天心
 岡倉天心は1902年にインドの首都コルカタ(旧カルカッタ)を訪れ、詩人タゴール、宗教家ビベカナンダ、画家オボニンドロナトらと出会い、彼らを刺激 してインドの独立運動に火をつけました。また、岡倉天心がコルカタで『東洋の覚醒』や『東洋の理想』の原稿を書いたことや、天心が1912年に再びインド を訪れたとき、ベンガルの女性詩人ピリアムボダデビと出会い、恋に落ちたエピソードなどを収めました。

 (2)一ノ瀬泰造の目で独立したばかりバングラデシュ
 1973年11月、わずか26歳の若さで、日本人の戦争写真家一之瀬泰造がカンボジアのアンコールワットでゲリラによって殺害されました。一之瀬泰造は その死の1年前に、当時パキスタンから独立したばかりのバングラデシュを訪れ、写真と手紙を残しました。彼が体験したバングラデシュでの記録を紹介しまし た。

 (3)田中正明氏の目で見たシェイク・ムジブル・ラーマン
 パール判事との親交が深い田中正明氏は、1972年、当時の田中角栄総理大臣の依頼によりバングラデシュを訪問し、同国の独立の指導者であり建国の父で もあるシェイク・ムジブル・ラーマンと会見しました。このムジブル・ラーマンはネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの弟子であり、アジアの最後の英雄と言 われましたが、1975年に軍人のクーデターにより家族とともに暗殺され、悲惨な最期を遂げました。田中正明氏から直接語っていただいた、生前のムジブ ル・ラーマンのありし日の姿を書きました。

 (4)日本―ベンガルの関係100年史
 岡倉天心が初めてインドを訪れた1902年から現在までの、日本とベンガル地方の教育・文化交流の歴史をまとめました。

 (5)日本人の祖先はインド人?
 日本人の起源説は様々ですが、その一つの説として、南インドから来たのではないかとの研究があります。ある研究家が南インドの洞窟寺院で、日本人の祖先 のつながりを見つけました。また、国語学で著名な言語学者大野晋氏が過去40年あまり研究した結果、日本語の起源は南インドのタミル語であると発表しまし た。日本人南インド起源説の検証はともかく、非常に面白いテーマであると思い、紹介しました。

 (6)大アジア燃える眼差し:頭山満と玄洋社
 明治思想家、自由民権運動の指導者頭山満と大アジア主義の歴史です。頭山満がインドの志士ラシュ・ビハリ・ボースを支援してくれなかったら、インドの独 立はどうなっていたでしょうか。しかしながら、インドやバングラデシュの歴史ではその貢献や役割がまったく知られていません。インドの独立を支援してくれ た多くの日本人がいたことを、インドやバングラデシュの人々に知ってもらいたいと思います。

 (7)革命家ラス・ビハリ・ボースとインドの独立
 ラス・ビハリ・ボースは、インド独立の歴史を語るとき欠かすことのできない英雄です。日本に亡命してからのビハリ・ボースが日本でどのように生き、インド独立に貢献したかを紹介しました。

 (8)ネタジ・シュバス・チャンドラ・ボースと日本
 チャンドラ・ボースと日本人の関わりは非常に深く、現在でも彼を知る日本人は、彼のことを熱く語ります。杉並区にある蓮光寺では、約50年前にチャンド ラ・ボースの記念会が作られました。蓮光寺には彼の遺骨が納骨されているといわれています。彼についてインド人の現在の評価などをまとめました。

 (9)日本で平和使者ラダビノド・パール判事
 東京裁判後、パール判事は3度日本を訪れました。教育者で平凡社の設立者でもある平和主義者下中弥三朗との親交を深め、広島から始まった世界平和運動に 終生重要な役割を果たしました。日本を心から愛し、日本国から瑞宝章を受賞したことや、京都護国神社や東京の靖国神社に彼の慰霊碑が設置されたことなどを 紹介しました。

 (10)日本とアジア関係の一部
およそ200万年から1万年前、日本列島と大陸は地続きでした。1949年に群馬県で発見された石器や道具と類似するものが東南アジアや南アジアのインド でも見つかりました。現在までに発見された人骨、土器、武器など、人類学的な形跡を調査した結果、日本人の祖先は20万年前頃、アジアの各地からこの土地 に到来したのではないかとの研究があります。言語学的にも、日本語にはトルコ語、ハングル語、中国語、マレー語、タミル語、サンスクリット語、ポリネシア 語などの影響があるといわれています。東南アジアや南アジアと日本との考古学的な関わりを考えました。

 (11)シャプラ二―ルは意外な例え
 日本の非政府団体であるシャプラ二―ルは、バングラデシュ独立時より現地で活動を続けてきました。この団体の功績によって、両国間で文化・経済・社会的 交流が深まり、バングラデシュで「ショミティ(助け合いの組合)」活動を実行し、成功をおさめました。現在は活動範囲をネパール、アフガニスタンにまで広 げています。彼らの熱意や手段がベンガル人にとって勉強になることを期待しています。

 (12)農業は日本人の心である
 お米による伝統的な文化の代表として、世界で良く知られているのがお寿司です。このお寿司は特にベンガル人の間で興味と人気が高まっています。ベンガル 人は生のものを嫌いますが、お寿司は好きな人が多く、よくベンガル人からお寿司のことを聞かれるので、日本とお寿司(米文化)の歴史を取り上げました。

 (13)松尾芭蕉とタクシー運転手尾道利治(アセコトシハル)さん
 日本といえば俳句が有名です。俳句はタゴールによってベンガル文学界に紹介されたため、特にベンガル人は俳句に興味を持っています。あるタクシー運転手が書いた『芭蕉の俳句』(英文)を通して、松尾芭蕉がどのように日本人から愛されているのかを紹介しました。

 (14)アジアに一つの広島、もう一つの長崎
 近年では、日本人自身が広島と長崎のことを、昔ほど思い出さないのが現状でしょう。しかし、日本ではあまり知られていないと思いますが、バングラデシュ やインドでは、毎年若い人々が自主的に8月6日を「広島の日」として、デモや音楽慰霊祭を行っています。本来なら甚大な被害と損害を受けた日本が主導して 平和運動が行われるべきでしょう。戦後、下中弥三郎、湯川秀雄、パール判事などの指導で、世界連邦による世界平和運動が始まりましたが、70年代には衰退 し、残念ながら現在ではあまり活発に平和運動が行われているとはいえません。広島、長崎に対する間違った情報も報道されています。その間違った情報を政府 が訂正することもありません。1952年にパール判事は小学校で子供たちに間違った歴史教えているのを見て大変驚き、非常に胸を痛めたといわれています。
 近年、アジアでは原子爆弾の開発競争が盛んになっています。インド-パキスタン間でも今後戦争が勃発すれば、直ちに原爆が使用されるのではないかと、近 隣諸国に心配の種を植え付けています。第二の広島、長崎の悲劇が起こらないよう、8月6日を「国際平和の日」にして、アジア各国で広島・長崎の原爆の実態 を若い世代に伝えるべきだと思います。
 パール判事は日本が再び武器を取ることになれば、原爆の犠牲となった人々を裏切ことになると語りました。日本では憲法第九条をめぐる論争がありますが、 私個人の意見としては、第九条を改正し、「軍隊」をもつべきだと思います。日本政府は日本国民を守らなければならないからです。現行第九条では、制約が多 く、いざというときに国民を守ることができないと考えるからです。

 (15)面をつける伝統演劇:能
 日本の古い伝統演劇である能は、本来インドの仏教に起源があると言われています。能は日本独特で、とても珍しい歌舞劇であることが世界に知られています。当然ベンガル人も魅力を感じています。おそらくベンガル語で能について紹介したのは、これが初めてだと思います。

 (16)インド映画が好きなある日本人女性
 松岡環(たまき)さんのことを、日本とインドの映画業界で知らない人はいません。松岡さんはインド娯楽映画の大ファンになって、1978年から今日ま で、日本でインド映画を上映するために大奮闘されてきました。現在までに何度もインド映画際を行い、両国で高い評価を受けました。また、インド映画につい ての論文を書き、大学や日本国際基金のセミナーでインドの映画文化を語っています。インド、バングラデシュ、パキスタン、ネパールなど、南インドの文化情 報誌「月間インド通信」の代表者の一人でもある松岡さんは、日本とインドの架け橋であることを紹介しました。

 (17)時代劇は消えていくのか?
 時代劇は日本の伝統的な大衆文化の代表的な芸術ですが、最近の日本の若者にはあまり人気がないようです。この大衆文化を通して、日本の中世の歴史、文 化、思想、そして侍精神が伝えられました。戦前や戦後、時代劇映画はアジア、アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパの映画界に大変な影響を及ぼしました。たと えば、黒澤明の「羅生門」、「七人侍」、「影武者」、「用心棒」または「座頭市」などが時代劇映画の代表的作品です。時代劇は日本人の若者には人気があり ませんが、日本に滞在する外国人にはとても人気があります。時代劇はベンガル地方の伝統的な舞台劇「ジャトラ」によく似ており、非常に魅力を感じました。 時代劇の歴史と黄金時代、そしてその将来を語りました。

 (18)日本の非差別部落民-同和問題
 古くから人間の間には様々な差別があります。現代においても人間の差別は世界中で社会問題を引き起こしています。アメリカ、アフリカの黒人差別、インド のカースト制度、ジェンダー差別などがあり、日本の非差別部落民も知られています。日本の非差別部落民は千年以上古いといわれていますが、インドのカース ト制度との制度上あるいは観念上の類似点があり、インドから日本に入って来たのではないかと疑われます。インドも日本でも穢れた仕事を非差別階級の人に担 わせるという点では同じですが、日本独特のすばらしい大衆文化である歌舞伎が、当時被差別階級とされていた人々から生まれたことは驚きです。江戸時代元禄 文化の頃には差別が緩和されました。さらに大正時代の大正デモクラシー運動によって、社会から全ての差別をなくすための「全国水平社」宣言が出され、差別 撤廃運動が行われてきました。その結果、現代の日本では表面上は差別のない社会に見えます。しかし、私たちバングラデシュのような貧しい国々から働きに来 た労働者たちは、社会生活において様々な差別を受けてきました。差別は社会から生まれるのではなく、一人ひとりの心の中から生まれます。

 (19)ファッション:美の神様 三宅一生
 日本の流行やファッションは欧米には伝えられましたが、南アジアの国々であるインド、バングラデシュ、ネパール、パキスタン、スリランカでは、日本の ファッション情報は皆無と言っても多言ではありません。アジアの国々のファッションデザイナーたちは、アメリカやヨーロッパを目指しています。そのため西 洋の真似をして、西洋人好みの作品に仕上がり、自分たちの独創的なアイディアがありません。ただ一人、三宅一生は自分の独創的な美しさを出しています。彼 の色使い、デザイン、形に、日本の伝統文化や仏教の美しさが驚くほど表現され、布に美しさを作り、西洋と東洋を上手に融合させているところに魅力を感じま した。ベンガル人とインド人は20世紀の天才ファッションデザイナー三宅一生のことを始めて知るようになるでしょう。

 (20)外国人の目から見た日本
 外国人は日本の外見である「機械」になったジャパンしか知りません。なぜなら、本当の日本を知ることができる歴史や実態が海外に正しく伝えられていない からです。国内にある資料はそのほとんどが日本語で書かれているため、外国人が読んで理解するのはかなり難しいと言ってもいいでしょう。しかし、それより も驚いてしまうことは、日本人自身が母国のことにあまり興味をもっていないことです。この25年間、労働者から裁判官など、様々な職業の人々とお付き合い をさせていただきましたが、母国の歴史をよく知らない人が多いのです。日本の学生さんたちは、学校や大学あるいは図書館で何を勉強し、何を読んでいるのか と不思議に思いました。
「今の日本は誰が作りましたか」
「日本は平和主義国ですか」
「戦後日本はどうやって先進国になりましたか」
「外国や外国人に対する日本の政策や役割りはどのようになっていますか」
「現代日本の3人英雄の名前を教えてください」
などと質問をしても、一向に答えが返ってこないのです。一体、日本ってどういう国なんだろう。日本人ってどんな人たちなんだろうと、日本に来てからずっと、そして現在でも疑問に思っています。
 日本人が日本を知らない理由は、戦後の教育に問題があります。結局、アメリカの真似をした結果、日本はどうなったのでしょうか。夢をもたない若者が多く 育ちました。政治家もその彼らを指導する力をもちません。現代の日本国民が将来に不安を抱え、朝から晩までひたすら働き、苦労しているのか、政治家や日本 政府は本当に理解しているでしょうか。先進国でありながら、日本国民の生活は豊かとはいえません。新しいアジアは今どんどん変わっています。しかし、その 情報は全く日本に伝わってきません。それは現地の日本政府機関がうまく機能していないからでしょう。経済援助を政治的なカードとして使う時代は終わりまし た。これからの日本は経済援助だけではアジアで活躍できません。再びアジアの指導者になる力があるにもかかわらず、まだその扉が開けないのはなぜでしょう か。
 ここでは日本の将来について、私自身が非常に心配していることを書きました。真の友達をもたない日本、指導者のいない日本を、若い世代が新しい日本に変 えることができるかどうか。根本的な改革が要求されます。日本の特に若い世代の人々はアジア諸国との交流を深め、彼らの国と彼らを見ることです。日本は第 三の扉を開けなければなりません。第一の扉は明治維新でした。第二の扉は終戦です。アジアとの交流の歴史を若い世代に伝え、日本がアジアの真の友達になる ことによって、日本の新たな発展の道が開けると信じています。 【プロビール・ビカシュ・シャーカー】