ヘボンの伝記を読んで日本語の辞書『和英語林集成』を最初に編さんしたのがヘボンであることを知った。日本にいる外国人のための和英辞典だった。その苦労話はそれでおもしろい。
 初めから話がそれる。当時、日本の印刷機がなかったため、上海で印刷することを決めたヘボンは英語を習いに来ていた岸田吟香を上海につれていった。明治維新の2年前のことである。
 岸田吟香は1866年夏から翌年5月まで9カ月、アメリカ長老派が経営する上海の美華書館に出入りし、中国に ない仮名文字を鋳造、校訂につとめた。岸田吟香なくしてヘボンの『和英語林集成』はならなかったかもしれない。ヘボンとの出会いは自らの眼病だった。箕作 秋坪の紹介で横浜のヘボンを訪ねた。
 辞書は完成して1867年7月、横浜で売り出されたが、岸田吟香はまもなくヘボン直伝の目薬「精錡水」(せいきすい)を製造して販売した。幕末明治、人 々は眼病に悩まされていた。「精錡水」は硫酸亜鉛の水溶液だった。これがよく売れたらしい。新聞に広告をうったり、錦絵を広告につかったりと宣伝手法も斬 新だった。東京日日新聞の新聞記者を勤めるかたわらの商売だった。やがて、新聞社を退社して、銀座に「楽善堂」という薬屋を開店、実業に専念することにな る。

 アジア主義者たちのパトロン
「精錡水」は中国、当時の清国でも売れた。楽善堂には大陸に関心を持つ人々が集まり始め、岸田は荒尾精らアジア主義者たちのパトロンとなった。荒尾は対中国貿易実務者を養成する上海の日清貿易研究所の設立に中心的役割を果たす。
 一方、岸田は1880年2月に榎本武揚や長岡護美、曽根俊虎らと興亜会を組織した。長岡は熊本の細川斉護の6男、後の子爵・貴族院議員である。曽根は米沢藩士の家に生まれ、海軍士官。日清の相互理解を深めるため、明治13年、東京に中国語学校を開設した。
 後に日清貿易研究所は同文会となり、日清戦争終結後の1898年、興亜会と一緒になって東亜同文会に発展する。曲折を得て、1901年、上海に東亜同文 書院(会長近衛篤麿)が設立される。初代院長は根津一である。東亜同文書院は目薬が縁となって生まれたといっていいのかもしれない。

 目薬のセールスマンだった内山完造
 おもしろいのは、上海に書店を経営し魯迅と親交を深めた内山完造が上海に赴く経緯となるのが、京都で牧師をしていた牧野虎次とので出会いだったことであ る。岡山に生まれた内山は京都の薬屋で丁稚奉公をしていたが、キリスト教の洗礼を受け、牧野の推薦で大学目薬本店参天堂の上海駐在セールスマンとなる。漢 口、九江、南昌などで目薬を売りながら中国人との人脈を深めていく。ここでも目薬が登場する。
 アジアに関心を持つ人々が目薬店主をパトロンにし、目薬販売を通じてアジアに目覚める日本人もいたということだ。
 望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』(慎重選書、1987年)にヘボンの目薬の効果絶大だったことが書かれている。
 1861年(文久元年)、眼病をわずらっていた戸部浦の漁師、仁介はヘボンに出合い、「一滴の薬水にてたちまち痛みが止み申し候」ということになった。このうわさが漁民に広がり、「ヘボンの治療で難病全快しもの56名これあり、泣いてヘボンの恩を謝し候」。
 望月は「アトロピンのような拡散剤が効いたのだろう」と推測している。

 アジアに蔓延していた眼病
 さらに「日本盲人史」その他を見ると、この時代、眼病は野放し状態で蔓延し、医学の中で眼科が最も遅れていた。火事のあとには眼病が広まるのを当然とし て、埃っぽい江戸では「塵よけ眼鏡」が売れる。髪結い床ではサービスに瞼の罨法(あんぽう)をするなど衛生観念がないため、流行性結膜炎が絶えない。また 性病対策は皆無なのか梅毒や淋病からの失明も多かった。
 四月、ヘボンは滝ノ川を越したとことに宗興寺という空き寺を借りて診療所とした。ニューヨークではコレラへの対応が評判となった内科医だったが、日本での患者の8割が眼病だった。
 岸田吟香がヘボンを訪ねたのは、1864年(元治元年)4月のこと。公儀の目を逃れて潜伏中、眼病をこじらせた。治療に通ううちにヘボンの信頼を得て、辞書編纂に協力するはめに陥った。
 岸田は学問より、ヘボンの家で得た知識を生かす方に興味があった。調薬を手伝い、眼薬や外用軟膏の調合を習った。同じころ、横浜でハリスの通訳だった ジョセフ・彦と意気投合。「海外新聞」を創刊した。新聞といっても当時、横浜で出ていた英字新聞の要約日本語版でしかなかった。しかも手書きだったから大 した部数が出ていたとは思われない。
 ともかく攘夷論者だった岸田がヘボンと出会い、目薬や新聞といった西洋の文物にのめり込むさまはおもしろい。