2008年05月05日(月)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 10年あまり前から日本の出版界は不況だといわれる。業界全体の売上高は下降気味で、発行部数はへるというのに、売上高維持のために出版点数を増やそうとする。書店の書棚も飽和状態で読者の目にとまることなく返本され、返品率は4割に近い。倒産する出版社や店を閉める本屋さんが出て来ているという。人々の活字離れ、少子化、余暇の過ごし方の多様化といったことがこの傾向に拍車をかけると説明される。
 私は、出版業界には関心があるほうである。それは、私が本好きであるためだけでなく、以前二〇年間近くドイツの書籍業界で働いたことがあるからだ。ドイツでは業界全体の売り上げは昔から横ばいでごくわずか上がったり下がったりするだけで、人々もそれに馴れっこになっている。

 ■解体しそうな本
 1980年代というと日本が出版不況でなかった頃だが、当時私は日本の本を手にするたびに、自分が関係するドイツ書籍業界を恥ずかしく思った。というのは、ドイツの本は値段が高いのに、製本がお粗末で、何度も手にとって線を引いたり書き込みをしたりしているとバラバラになりそうになったからだ。
 反対に、日本の本は装丁もよく製本もしっかりしていて、丹念に作られているだけでなく、風情のある帯がついていたり、栞がはさまっていたり、また栞代わりに利用できるように本の背中から紐が垂れ下がっていたりしていた。私がもっと驚いたのは、そうだというのに、日本の本の値段がドイツの本よりはるかに安かったこ
とである。
 はじめのうち、私は日本人のほうが器用だからとか、真面目に物作りにはげむからだとか考えていた。ところが、そのうちに別の点も重要であることに気がつく。それは、日本の出版物のほうが一点の発行部数が高く設定されていて、そのために製本や装丁にお金をかけることができる。また出版社がそうしないと購買者のほう
が承知してくれないように思われた。
 当時ドイツと日本を比べて目についた次の相違は、前者のほうが後者より出版点数が多かったことである。例えば日本の年間発行点数が三万足らずのときにドイツは五万点といった具合で、いつも大幅に日本を上まわっていた。8千万あまりのドイツの人口も当時西独だけの6500万人で、隣国のドイツ語圏・オーストリア800万とスイスの400万人を加えても、人口比出版点数が日本よりずっと多かったことになる。
 ドイツで出版点数が多いのは、専門書や学術書など部数がでない本もたくさん出版されたからである。日本でもそのような書籍は大きな本屋へ行くと少しは見つけることができたが、全体として見ると、大多数の出版物は読者に専門的知識がないことが前提とされた一般図書であり、入門書の類であった。
 ドイツの出版点数が多いことは出版社が多いことと無関係でない。よく業界では冗談半分で本屋より出版社の数が多いといわれた。大きい出版社もあったが、大多数は小さく(東京に集中する日本と異なり)全国津々浦々に分散している。町の印刷屋が出版社を兼ねていることもよくあったし、副業で自分の好きな本を年間数点出している出版社もあった。
 
 ■柳の下のドジョウ
 日本の製本がしっかりしていたのは、すでに述べたように発行部数を高く設定できたからであるが、それが可能であったのは書籍購買者が多かったからである。またそれは日本では多数の人が教育熱心で上昇志向が強く、本当は本なんかあまり読まない人々も書籍を尊敬して買わなければいけないと思ったからで、装丁や製本がよかったのもこの事情と少し関係があるかもしれない。
 ドイツのほうはそうでなかった。社会が高等教育を受けて読書を重視する階層と反対に本を読むことにどちらかというと反感を抱く庶民・大衆に分裂している。多かれ少なかれ、ドイツだけでなく西欧社会に見られこの構造は、日本にないためにその意味が軽視されることが多いが、重要である。
 例えば、欧州の多くの国で新聞は発行部数が50万部に満たない高級紙と数百万部の大衆紙に分かれている。ところが、日本では両方の要素を備えた巨大な日刊新聞が存在し数百万の発行部数を誇る。これは、日本で所帯をもつ人がナベ・カマをそろえるように新聞を定期購読しなければいけないと思ったからである。新聞に関する日本と欧州の相違は、教育に関連した社会的階層ギャップがあるかないかの反映である。
 戦後日本では多数の人が大学へ行くようになった。これは国民大多数が教育熱心で自分の子どもに高等教育を受けさせようとしたからである。反対にドイツは、戦後長い間大学進学率が数パーセントにとどまったままで、1970年代に入ってからはじめて大学を新設し学生数を増やそうとした。でも現在でも日本のような高い大学進学率にほど遠い。その理由は高等教育を受けていない親が娘や息子の大学進学に積極的でないからである。
 ここで書籍にもどると、日本で発行部数を相対的に高く設定できたのは教育熱心な大衆を含む巨大な読者層に恵まれていたからである。専門家にも理解しにくい哲学書や、翻訳で読みづらい世界文学の名作が「全集」としてセット売りされて全巻購入されたのも、ドイツなら町の図書館にしか見られないような百科事典が一般家庭に置いてあるのも知識的階層ギャップのない構造のお蔭である。
 ドイツは日本と反対で、本が高等教育を受けた階層から大衆に浸透していくことは簡単なことでなかった。今も昔も本屋さんは文化的使命感が強く庶民から煙ったがられる。以前よく、デパートの書籍売り場が一平方メートルあたりの売上高が一番といわれた。その理由は、庶民が食料品の買い物をしてから敷居の高さを感じることなく書籍売り場へ移れたからである。
 部数の出ない専門書を多数出版するドイツから見て、日本の出版社は、大衆を含む巨大な読者層に支えられて、不特定多数のための一般書・入門書ばかりを出し、潜在的なベストセラーねらいであった。柳の下にドジョウ三匹といわれるが、日本には千匹ぐらいはいて、探せば次から次へと出て来る幸せな業界であるように思われた。
 このように以前うらやむことが多かったせいか、日本の「出版不況」と聞いても、私は素直に受け取ることができないで、どちらかというと、柳の下にドジョウが三匹しかいないと嘆いている人々を連想してしまう。

 ■発行点数の増大
 出版点数であるが、2006年新刊点数は日本で8万618点であった。この数は10年前の1996年と比べて2万点も増えたそうである。一昨年のドイツの新刊点数は8万1千177であるので、日本の発行点数はドイツに近づきつつあることになる。
 売り切れて絶版になっていた本がまた売れると期待されて再度刷られることがある。ドイツで2006年に1万3千539点がこうして再版された。日本での再版点数がわからないが、返本された本がすぐに断裁処分されるようにいわれている以上、再版される点数は少ないかもしれない。再版本も市場に参入してきて読者の関心をひこうとするので新刊書と似ている。
 ということは、識字率は同じで人口はずっと少ないドイツで日本よりはるかに多い9万5千点に近い数の本が新たに(再度)市場に押し寄せてくることになり、ドイツも「出版不況」を嘆いていいことになる。また日本では売上高維持のために発行点数を増やしたり、「自転車操業」で本を出したりすると説明される。ドイツの出版社から見れば、点数を増やして売上高を維持できたり、また「自転車操業」でも操業できたりするのなら、そんな悪い状況でないように思われる。
 同じ売り上げを少ない点数で達成できれば商売としておいしい。それが不可能になったといっているだけなら、やはり柳の下のドジョウが三匹になったことを嘆いているだけになる。日本にもいろいろなタイプの出版社があると思われるが、「出版不況」という表現じたいがはじめからベストセラー志向の強い出版社にその照準がむけられているような気がしてしかたがない。
 また「出版不況」の現象として返品率が40%近くまで上昇したことが嘆かれる。5%とか6%とか(10%とか)がドイツの返品率であると聞いて日本の出版界は羨ましくなるかもしれない。でもドイツは(日本のように委託販売制でなく)買取り制で返本がないのが普通であり、またあってもその意味が日本と異なるために、数字だけを比較できない。
 ドイツの小売は買取りリスクを負っているためにその取り分は22%ほどの日本より大きく、専門・学術書で25-30%、一般書籍を卸から入れると35%で、同じ出版社から直接に入れるときには取引量によって40%以上、ときには50%に接近する。ということは、ドイツの出版社には(日本のように70%とか80%でなく、)事情次第で50%の取り分で我慢する覚悟があることになる。
 そんな彼らから見たら、返品率40%を嘆く日本の同業者が理解できないかもしれない。というのは、ドイツには見本市など本を展示する機会があるが、そのためにかなり出費しなければいけない。ところが、日本では無料で取次会社が本を親切にも全国の書店へ運んで展示してくれるからである。数ヶ月して戻って来たときには6割以上もはけていると聞いて彼らはただ羨ましくなるだけでないのだろうか。

 ■書籍「流通」の意味
 ドイツの出版関係者のなかには、日本の「出版不況」についての話を聞いているうちに、日本の出版業者が何かの誤解で本とよんでいるだけで、本当は雑誌のことを話していると思う人が出てくるかもしれない。というのは、ドイツでも新聞や雑誌となると日本の取次に似た会社があって販売所へ運んでくれるだけでなく、売れ残りを取りにいき、廃棄処分まで引き受けてくれるからだ。
 シュピーゲルはドイツを代表する週刊誌であるが、先週のシュピーゲルと今週のシュピーゲルがキオスクで仲良く並んでいる光景に出合わない。雑誌は新しい号が展示されると、前号は店頭から消えて流通しなくなるので、新聞や雑誌などの商品グループが流通していることは、店頭で展示されていることと同義である。ということは、日本で出版点数が増え過ぎて、書棚に置けず、その結果本が売れないで返本が増えて流通が機能しないとする説明そのものが、新聞・雑誌の「流通」概念を「本の世界」に適用していることにならないか。
 すでに述べたように、ドイツの出版業者は日本で取次が無料で本を全国の書店で展示してくれて戻ってきたときに6割以上は売れていると聞いて眼を輝かせる。おそらく彼らは、自分たちは6割も売れなくていいとか、4割でいいとか、3割でも満足すると口々にいいだすかもしれない。
 ドイツの出版業者が日本のシステムに感動するのはここまでで、その後店頭に陳列されなくなって本の寿命が終わったとされて、返品分も在庫分も廃棄処分されると聞いたら憤慨する。彼らがそう反応するのは、新聞や雑誌の「流通」概念を書籍に適用しないで、本は店頭に置いてあろうがなかろうが、絶版になるまで流通すると思っているからである。
 ドイツで本が流通しているとは、出版業者に注文したらその本が納入されることである。今ではCDになったが、昔は数巻に及ぶ緑色の装丁の「納入可能図書目録」があった。現在この目録に約120万点が記載されていて、これらが納入可能で流通している本である。ということは、この目録は、「私はこの本はかならず納入します」という出版業者の約束を集めたもので、この約束に対する信用によって書籍は流通しているのであって、本が本屋の店頭に置いてあることは二次的問題である。こう考えることが、(雑誌でなく)書籍を扱う業界の「流通」概念である。
 出版社が納入約束を守りたくなくなったら、出版後18ヶ月たてばいつでも取り消すことができる。その結果本は絶版になり、上記の目録からはずされて流通しなくなる。同時にこの措置によって再販売価格維持の拘束がとかれて、別の(安い)価格で販売してもいいことになる。これは買取った本を定価で売ろうとしていた小売りにとって不利になるので、出版社は返本する権利を認めなければいけない。この結果売れ残っていた本が出版社に戻って来る。これも返本の意味が日本と異なる例の一つである。

 ■本の雑誌化現象
 日本では新聞・雑誌業界の「流通」概念を書籍業界に適用するのは、本が雑誌のように流通すると見なすことである。このように本が雑誌と同じように扱われる現象を本の雑誌化とよぶとすれば、これに関連して気になることがいくつかある。
 ドイツの本屋では雑誌が置かれていないのに対して、日本では雑誌が売られている。雑誌が置いてある本屋はドイツで普通は駅の構内に限定されている。そうであるのは、ドイツの書籍業者から見て新聞や雑誌は別の業界で垣根があるからで、本屋が本だけでやっていけない場合にも、雑誌でなく別の商品グループ(例えば文法具)を置くことが多い。反対に日本では雑誌に対して別の業界に属するという垣根意識はあまりないのではないのか。この事情も本の雑誌化と無関係でない。
 ドイツの小売にあるこの垣根意識は生産レベルでも見られる。というのは、書籍をだしている出版社は普通雑誌に手をださないし、雑誌社は本を出版しないからである。反対に日本で大手出版社は雑誌社や新聞社で、書籍の出版も兼業している。雑誌のほうが本より資本の回転をはやめるので、同一経営体の中で雑誌づくりの論理が本づくりの論理を圧倒するのではないのか。また小さな本屋にとって定期的に売れる雑誌は頼もしい存在である。このような要因が本の雑誌化現象を進行させたと思われる。
 ここまで、日本の書籍業界と保守的であまり変化しないドイツを比べた。本と雑誌を隔てる垣根がドイツほど高くなかったかもしれない。でも日本にも「本の世界」と「雑誌の世界」が、今のドイツとそれほど変わらない時代があって、本づくりと雑誌づくりが別々のことと見なされていたのではなかったのか。そのことが意識されないのは、急激な経済成長、空前の週刊誌ブーム、生活の隅々に及ぶテレビの影響などによって知らない間に人々の頭の中で本の雑誌化現象が進行したからである。
 私はドイツで一世紀以上も昔に刷った本を今でも絶版にしないで在庫として抱えている出版社を知っている(注)。これは極端な例であるが、でも日本ではどうして本が雑誌と同じように流通すると考えるのだろうか。奇妙な期待をもち、その期待通りにならないといって「不況」だというのは、自分の頭の中で進行した本の雑誌化に気づかないからである。
 今でも「本」という単語は残っているかもしれない。でも頭の中のほうで本がとっく死んでいて、本をつくっているつもりでも、知らない間に雑誌に近いものをつくっていることだってあるのではないのか。本づくりに関連してよく強調される話題性もこの現象と無関係でないかもしれない。

 注) http://www.geocities.jp/tanminoguchi/heidelberg.htm
  美濃口さんにメール Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de