13日、伊豆の下田市で「伊豆龍馬会」が誕生した。全国で121番目ということらしい。縁があって発足会に出席した。
 伊豆龍馬会が注目されるのは、文久3年1月15日に、この地で土佐藩主の山内容堂公と幕府軍艦並の勝海舟が会談し、龍馬の脱藩が許されたと歴史に記憶されているからである。
 龍馬はその前の年3月に脱藩し、勝海舟の門下生となっている。歴史的な薩長同盟を成功させたのは3年後の話であるから、龍馬はまだ無名の存在だった。し かし、晴れて行動の自由を得て、維新回天の大事業に突き進む端緒となったことは確か。伊豆龍馬会は「龍馬、飛翔の地」として下田を売り出そうというわけ だ。
 そもそも、こんなところでなぜ?という疑問があって当然だが、歴史的会談は偶然の産物だった。容堂公を乗せた 大鵬丸が江戸から上方に向かう途中、遠州灘で嵐に遭い下田で風よけをしていた。一方の勝を乗せた幕府の軍艦、順動丸もまた風雨を避けて下田に入った。嵐が なければ、伊豆半島沖で互いにすれ違っていたはずだったが、運命のいたずらが二人を下田に引き寄せたのだった。
 宝福寺に宿をとった容堂公は幕府軍艦の入港を知り、使いを走らせて勝を寺に招いた。勝は配下の脱藩土佐藩士3人を引き連れて宝福寺に乗り込んだ。京都の情勢など意見交換が一通り終わった後、勝が切り出した。
「坂本龍馬ら土佐の脱藩藩士を赦して、私にまかせてほしい」
 容堂公はむっときたが
「まぁ、一杯いこうか」
と大きな杯に酒を注いだ。
 容堂公は「鯨海酔侯」と自ら名乗るだけあって大酒飲み。勝が下戸であるのを知った上のことだった。勝が一気にその杯を飲み干したのを見て、上機嫌となった容堂公は龍馬らの赦免を約束した。
 土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことだったが、勝にとってはかけがえのない門弟であった。勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めた。
 容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書いて、「鯨海酔侯」」と署名した。この経緯は土佐藩の記録にも残っている。2月に正式に脱藩の罪はとかれた。
 その時、下田に龍馬がいたかどうか、龍馬研究では一つの論争になっているが、13日の発会式で会長となった宝福寺の竹岡幸徳住職があいさつの中で新しい”事実”を披露した。
「両雄が下田で会った時、寺の住職をしていたのは祖祖父の竹岡了尊(りょうけん)でして、龍馬は同じ順動丸に乗っていて、町の住吉楼で勝海舟からの吉報を待っていたと話していたというのです」
 下田は和親条約によって開港され、アメリカのハリスが最初に領事館を置いた地。その妾として唐人お吉がかいがいしく世話をしたことで知られる。維新史の中で「龍馬、飛翔の地」としても今後、評判を高めていくことになるのだろうと思う。歴史を知る楽しい一日だった。