日常だれもが口にしている「知事」。自治体の長であるが、なんで「知る事」が長なんだろうとずっと考えてきた。
 日本で「知事」が官職名となったのは、廃藩置県以降だろうと多くが信じているだろう。実は明治維新の日本がまだ慶応の年号を使っていた時期に遡る。
 大政奉還の後、戊辰の役の最中、西郷隆盛率いる倒幕軍が江戸城の無血開城に成功した。徳川慶喜は駿府に引きこもることとなり、780万石あった徳川領のうち駿府の70万石を残して、”新政府”側に引き渡された。カッコ付で新政府といったのは、1868年4月1日時点でまだ行政体としての政府をもたなかった。
 閏4月21日に出された政体書で初めて、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。同時に召し上げた徳川領に「府県制」を敷いた。奉行が支配していた地域「府」に、その他を「県」とし、その長として「知府事」「知県事」を置き、支配することにした。ほとんどの大名の統治はそのまま生き残り、知事は旧徳川領に限定された。
 江戸が東京となったのは同年9月のことであるから、江戸は江戸府と呼ばれ、その長は江戸府知事と呼ばれた。長に地名を付ける時、「江戸府知府事」というのも変だったから、「江戸府知事」となったとされる。
「江戸府」とか「江戸府知事」は4月から9月までの短命だった。9月には「東京府」「東京府知事」に変更された。
 知事の第二弾は1869年(明治2年)の「版籍奉還」だった。藩主が「知藩事」となった。ちなみに「藩」という概念は江戸時代にはなかったとされる。新政府が旧幕府領と区別するため、「藩」と呼んだのが真相のようだ。
 版籍奉還はさらに1871年(明治4年)7月に「廃藩置県」へと発展し、「府」「県」「藩」は「府県」に統一され、知藩事は「知県事」「知事」と呼び改められた。全国は1使(開拓使)3府(東京府、京都府、大阪府)302県となった。
 300余藩が府と県に再編されたが、あまりにも数が多いのと、境界が入り組んでいる上、飛び地が数多くあったため、同年11月には府県の統合が行われ、県の長は「県令」に改められた。地方の行政区は1使3府72県まで減らされた。
 ちなみに県令は1886年(明治19年)に「知事」に戻され、現在に至る。それから東京が「府」から「都」になったのは昭和18年のこと。東京府と東京市が合体したものである。