2007年12月25日(火)駿河台大学大学院前教授 斎藤 祥男
 今年の秋(10月初旬)には5年に一度の半田祭り(知多半島半田市)の大祭があったが、予定した日程が噛み合わなくて出掛けられずに終わった。そんな半田市の境を流れる矢勝川の堤防に、毎年秋に多数の彼岸花が咲き誇って、今や花の名所となっているという。
 この花盛りは自然発生的にできたものではない。「彼岸花、なぜに彼岸花、
幾年念じてこれ彼岸花」(小栗大三氏作) この想いには二つの想いが重ね合わされているという。一つは「昔の古里の原風景」への想い、二つ目は「亡き戦友への鎮魂の想い」。
 12月24日10:05~11:00AMに亘るNHK「ふるさと発:彼岸花なぜ彼岸花――亡き戦友への鎮魂」から、その要点を探ってみる。
 本年89歳になる小栗大三さんは、半田農学校を卒業後間もなく徴兵されて
日中事変勃発とともに中国へ派遣となる。その後太平洋戦争では、最も過酷と言われた(旧称)ビルマのインパール作戦に参加し、多くの戦友を失いながらも幸運にも生きながらへて帰国した。
 しかし郷里は荒れ果て、若き日のイメージは失われ、矢勝川の堤防は通行さえ出来ない雑草がおい茂っていた。この川では、むかし子供達は水浴び場として楽しい時を過ごした思い出がある。その中には、三十歳を前にして、若くして鬼界へ去った三歳程歳上の天才童話作家新美南吉(本名:正八)もいた。
 新美南吉の童話「ごんきつね」や「でんでんむしの悲しみ」は、往時の名作として評価され、農学校卒業後地元で代用教員となった南吉は、みずから教壇に立って児童達に朗読して聴かせ、幼きなき子供達の情操を育てて行った。
童話「ごんきつね」の絵本に現れる原風景は、正に矢勝川の彼岸花であった。
 平成2年、小栗大三さんは矢勝川の土手を100万本の彼岸花で飾ろうと思い立ち、たった一人で一粒の球根から植苗を始めた。幾年かの月日は流れた。小栗さんのこの姿を見て共感した地元の人がボランテイアーとして加わるようになって、平成7年「環境を守る会」が結成されて、以来5年程経った現在では、多くの人々の協力で今や彼岸花は200万本になろうとしている。かくて矢勝川の土手は、15年の歳月を経て彼岸花の名所となったのである。
 煌びやかな映像や、絶叫するが如き若者達の愛唱歌、わけの解らない横文字入りの歌唱が若者に持て囃されるなか、情感が胸に伝わる朗読芸術が静かなブームを広げつつある。最近タレントの浅野温子さんが矢勝川を舞台に神社の前で「ごんきつね」の朗読を被露した。 古里に染み付いた文化を失ってはならない。
 小栗大三さんは最近また和歌を散りばめた著書を出版したようだ。「彼岸花とおっかさん」が題名とか? 母一人子一人のまま出征した彼が、戦地から母親と交信した手紙が幸運にも残されていて、それが基礎となった図書と聞くが、
ビルマ派遣軍憲兵隊本部で、軍の功績恩賞記録係りとして戦死者の死亡記録ばかりを書き続けていたため生還でき、片や第一線で多数の友を死に至らしめた悔恨の情が、亡き戦友への手向けの彼岸花づくりに邁進させた原動力の一つと述懐している。
  「戦争とは何ぞや多く死に、われは生きたり(彼岸花)」
  「彼岸花 咲いて故郷は静かなり」
  「今日の雲はと 今日の雲見る」
 近作の彼の詩歌の情感は、最後に「この故郷こそいわば極楽」と彼をして言わしめている。(2007・12・24)

 斎藤さんへのメールはsaitoyoi@courante.plala.or.jp