実業を教えた日本のホイスコーレ
昭和5年8月12日、静岡県御殿場に農民福音学校高根学園が生まれた。日本いたるところで農村が疲弊していた。当時の農業は米麦が中心で換金作物としては養蚕がかろうじて支えていた。しかしその繭の価格が3分の1まで暴落していたから、農民の生活は成り立たなくなっていた。
農民学校の発想はデンマークにあった。19世紀、酪農地帯をドイツとオーストリアの連合軍に奪われたデンマークで国土復興運動が起きた。その中心に農村の復興が第一義の課題として浮上し、農業青年を教育して国土の復興を図った。農村でホイスコーレ(ハイスクール)が次々と建設された。その物語を伝えたのは内村鑑三だった。荒れ野を開墾し、木を植える運動も同時に起こった。内村は『デンマルク国』という本で日本の青年に奮起を促した。それらの運動を実践に移したのが賀川豊彦だった。
賀川は各地で農業協同組合の設立を手助けする一方で、キリスト教精神による農民福音学校の建設にまい進した。
高根学園は北駿の窮状を訴える青年たちの熱情に賀川が応えるかたちで建設が始まった。お金はすべて賀川が調達した。賀川は農村の復興はまず教育からと考えた。賀川の行動は速かった。8月6日から3日間の「イエスの友修養会」で話を聞いた賀川は早速、御殿場に行こうと言って、3日後に夜学が始まった。20数人が集まった。
賀川の講義内容は、得意の立体農業から始まり、世界的食料事情、産業組合、医療利用組合、国民健康保険、世界思想史、労働運動、など多彩を極めた。賀川は御殿場に1カ月滞在、昼は小説を執筆し、夜は講義に励んだ。その時の小説は『一粒の麦』として雑誌に連載され講談社から単行本として出版された。
一週間もすると、賀川は「農村改造も何もかもみんなまず教育からだ。学校を建てよう。土地はないか」を言った。翌6年7月には本当に高根学園の2階建て本館が完成してしまった。建設費用1800円は賀川がすべて調達した。
この学校では当時としてはそうそうたる講師陣が集まった。杉山元治郎は農協運動の開祖。竹中勝男、駒井卓、河上丈太郎、枡嵜外彦といった人たちの講義は連日満員の盛況だったという。
賀川の立体農業は独特だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない”理論”だった。
賀川を支えたのは藤崎盛一。東京農大出身で賀川の信奉者のひとりだった。岐阜県からシイタケ栽培の専門家を招き、シイタケ栽培で成果を上げ、ハクサイの栽培にも成功した。生徒だった勝俣敏雄と滝口良策を長野に派遣して各地でクルミとアンズ、クリなどの栽培を学ばせる一方、土づくりにも励み、倉敷の板谷博士が発見したバクテリア「ザザ」による新堆肥の製法を指導、学園内に試験場もつくった。
おもしろいのは、生徒の一人、勝俣喜六(一色)を一年間、横浜でハムづくりをしていた大木のところに派遣、その製法を学ばせたことである。ハム類はもともと保存食として工夫されたものである。煙で燻すことによって生肉の長期保存が可能になる。大木市蔵は日本のハム・ソーセージづくりの先駆け的存在。千葉の農村から横浜に働きに出てドイツ人からその製法を学んだ。横浜在住の外国人を中心に販売、する一方で、東京農大でのハム製法を教授した。
勝俣が帰ると学園にハム、ソーセージ、ベーコンの工場ができて製造が始まった。製品は「富士ハム」と命名され、東京向けに出荷、最盛期には月間100頭のブタがこれに充てられたという。富士ハムは戦前に事業閉鎖されるが、賀川の事業に興味を示した御殿場在住の宣教師ボールデン氏直伝の手作りハムは「二の岡フーズ」として現在に生きる。また学園の牛乳づくりは今日の「丹那牛乳」となった。この牛乳はまた森永に引き継がれ、初代工場長の花島惣右衛門はクリスチャンとして賀川と大いに肝胆相照らすところがあったという。
富士ハムは事業閉鎖となったが、勝俣喜六の技術は群馬県の高崎の「高崎ハム」で花開くことになる。高崎畜産組合に招かれた勝俣は先進地ヨーロッパ各国を視察し、最新知識と技術を導入して現在の高崎ハムの礎を築いたのである。