熊野を考える
紀の国は木の国であり、鬼(き)の国でもある。つまり紀の国は木がたくさん繁っていて、鬼がいる土地柄ということになる。多くの本に書いてある。 筆者の考えではない。イメージとしては、深い樹林が一帯をおおっていて、昼なお暗い。中上健次の世界でいえば『木の国、根の国』となる。ならば鬼ってのは 何なのか。思いを語りたい。
江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は「きのくにや」と読むのだが、どうして「紀伊国」が「きのくに」となるのか不思議に思う方も少なくないと思 う。実は旧国名の紀国は「きー」と読みが長音化し、さらに「きい」と二音節化してやがて「紀伊」となったという。奈良時代、朝廷は「国名は二字」と決め た。
江戸時代の紀伊国は現在の和歌山県と三重県の南部を併せた広がりを持っていた。現在の紀伊半島の南部の広い地域は古来、熊野と呼ばれていた。熊野 国があったという説もないわけではないが、不思議なことに昭和になって三重県熊野市や和歌山県熊野川町(現田辺市)が生まれるまで「熊野」が付く地名はな かった。あったのは熊野本宮という神社名と官職としての熊野別当。あとは熊野川、熊野灘という水域名だけである。今は和歌山県西牟婁郡、同東牟婁郡、三重 県南牟婁郡、同北牟婁郡という行政区になっているからややこしい。
「紀伊」と「紀国」
熊野は古来、神仏混交の祈りの場だった。
熊野には昭和31年まで電灯のなかった村があり、紀勢本線が全面開通するのが同34年だったから、熊野が近年まで鬼のすみかだったとしても不思議ではない。
熊野市の中心は木本町(きのもと)という。南牟婁郡の8カ町村が昭和29年11月に合併する前の町名である。JRの駅もこの木本町にある。かつて の熊野詣の宿場町の風情をかすかに残す街並みがある。そのむかし鬼本町といった。恐ろしいげな町名である。「町名に鬼がつくのはいかにも」と考えてそのむ かし鬼が木に変わったそうだ。
その話を聞いて、瀬戸内海の女木島を思い出した。高松の沖合にある小さな島で、桃太郎の鬼がいた伝説がある。別名、鬼ケ島である。男木島もあるから、本来は対で男鬼島と女鬼島だったはずだ。鬼が木に変わった地名は全国津々浦々にある。
経済評論家で有名な故三鬼陽之助氏は尾鷲の出身だった。尾鷲も熊野の一部である。その尾鷲の西端の海岸線に三木浦という寒村がある。三木もその昔は「三 鬼」だったから、たぶん陽之助氏の祖先は三木浦にいて、いつの時代か尾鷲に移ったはずである。三木浦の三木小学校の戦国時代、三鬼新八郎の居城があったと ころである。
9匹の熊野の鬼たち
その三木浦をさらに西に行くと二木島という村がある。二木さんという苗字があり、仁木という苗字もある。同じように二木も仁木もむかしは「二鬼」だっ た。三木浦から二木島にかけての熊野の海岸線はリアス式で複雑に入り組んだ入り江が随所にある。そのほぼ中間に楯が崎という断崖がある。日本書紀によると 神武天皇が東征の折、ここから半島に上陸し、大和を目指した。先導したのはもちろん三本足のヤタガラスである。
二木島からさらに西にいくと鬼が城(おにがじょう)があり、その向こうが木本となる。
鬼のつく苗字で一番有名なのは九鬼さんであろう。
戦国武将で九鬼嘉隆がいた。九鬼一族は熊野水軍を率いて織田信長につき、後に秀吉に仕えて大坂・石山本願寺攻めでは鉄甲船をつくって軍功を上げた が、徳川の代になって、摂津三田ならびに丹波綾部へ転封され、海との接触を断たれた。一族はもとは尾鷲の九鬼に本拠を置き、戦国時代になって志摩に進出、 嘉隆の時代には鳥羽に城を築いていた。
筆者にも九鬼さんという友人がいた。三重県四日市市の出身だった。もちろん祖先は尾鷲の九鬼で、九鬼水軍の直系だといっていた。氏神さまは九木神社。神社に鬼の字をつかうのはさすがにはばかられたに違いない。
これで「二鬼」「三鬼」「九鬼」とみっつの鬼たちがそろった。もうひとつ「八鬼山」という地名が尾鷲にある。熊野古道の峠にもなっている。八鬼山 に登ったことがあるが、霧で眺望が期待できなかった。みっつの鬼の里は海岸線にあるが、八鬼だけは山の上である。里人に聞くと「晴れると山頂から、二木、 三木、九鬼の里がみえる」のだという。熊野灘を見晴らす山頂には烽火台があって、緊急時には入り江ごとに住み着いた水軍に号令をかけた。そんな空想をさせ る場所である。
九鬼さんに「熊野には何匹の鬼がいますか」と問うたことがある。「よっつまで見つけたんです。二と三があり、八と九があるのだから、どこかに一と四、五、六、七の鬼がいるはずです」。
まもなく一については解決した。熊野市の木本は「きのもと」と読み、もとは「鬼本」だったと聞いたからだ。そうなると残りは四、五、六、七の鬼となる。
9つの鬼を考えるヒントが東北にあった。八戸市は大きな都市で演歌にもたびたび登場する漁港がある。数年前に知り合った若松さんという人の出身地が九戸村であることを偶然知った。
「ということは一の二も三もあるんですか」
「四以外、一から九まで戸のつく地名があります。旧南部藩にある地名です」
かつて南部藩に一戸から九戸まであった。戸は牧場の意味だそうで、源平の時代から馬を育てるため、かの地に官営牧場が八つあったというのだ。
同じように一 から九までの「鬼」が熊野にいたのだとしたら面白い。その場合、「鬼」は水軍である。そもそも軍隊は「第一師団」というように部隊を数字で呼ぶ習わしがある。陸軍は「戸」、そして海軍は「鬼」が元祖だと考えられないだろうか。
問題は二木(鬼)や三木(鬼)だという地名がいつごろからあったのかということである。郷土史を細かく調べていけば、分かる話なのだが、筆者の場合、いまのところそこまで手が回らない。
九鬼という姓については、ウェッブ上で説明がある。ウィキペディアには「出自は詳しくわかっていない。九鬼浦に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある」とあるからそう古いことではない。
また「戦国武将の家紋」には次のように書かれてある。
”くき”という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また”くき”のきは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。
九鬼氏というのは、熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られている。それとは別に、熊野別当の九鬼隆真が紀伊牟婁郡九鬼浦に拠って、子孫が繁栄して一族をなしたものがある。さらにこの九鬼隆真の子の隆良が志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏ができた。
九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、八庄司のひとつ新宮氏であろうとされるが、熊野三山の別当家のどれかの支族であろう。
ちなみに現在の熊野本宮の宮司は九鬼家隆氏といい、本宮の説明板には「鬼のつの(田の上のノ)のない字で、角がないから『鬼』ではなく『神』つまり『くかみ』と発音する」といったようなことが書いてある。
また節分の折には「『鬼は内、福は内』とか 『鬼は内、福は内、富は内』とか、(『鬼』というのは古来『神』に通じていた として)『福は内、カミは内』とかというように唱えたという話が、『甲子夜話』(肥前 平戸藩主松浦静山の随筆)等に伝わっている」ということのようだ。