熊野牛王符というものがある。明治までごく普通に流通した。通貨ではない。証書の一種である。公証役場というものが現在残っているが、契約書をしたためる場合に公証役場は印を押した証書に書くことで社会的信用が増すのである。
 日本が藩に分かれていた時代、そうした役割は宗教が果たした。牛王符は寺社が発行する証書用紙である。特に熊野牛王符は全国的に有名だった。
 源義経が兄頼朝に謀反の疑いをかけられた時、頼朝に自らの潔白を書きつづった文書はこの熊野牛王符に書かれたという。鎌倉市腰越の満福寺に残っているのは下書きの文書で、鎌倉府に送ったのは牛王符だったのだろう。熊野牛王符の歴史は古いのである。
 司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説を読んでいた時、この牛王符が登場した。主人公の嘉兵衛は淡路島の出身で、青年時代に盗っ人の嫌疑をかけられた。自分 で真犯人をみつけた。犯人である駒吉をつかまえて熊野牛王符に「いりこぬしとは、かへいにござなく、こまきちにござそろ」と書かせる。
 昨年秋、熊野本宮大社でその牛王符とやらを一枚買ってきた。新宮、那智と熊野三山でそれぞれデザインが違う。本宮の牛王符は、真ん中に「熊野山宝印」という 五文字が書かれ、朱で宝印が押されてある。おもしろいのはそれぞれの文字がカラスの姿を寄せ集めてつくられてあることだ。数えてみたら「熊」という字は 18羽のカラスで構成されていた。この裏に書かれた文章はうそ偽りがないということをカラスたちが証明した。そういう時代が長く続いた。
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