桜のうんちく(7) 近江の「行く春」
千載集では読み人知らずとされているが、平清盛の末弟、薩摩守忠度が作者。平家物語の「忠度都落」はあまりに有名。
忠度は一ノ谷の戦いに向う途上、藤原俊成宅に立ち寄り自らの歌集を委ね、「勅撰和歌集を編纂する際に一つでいいから載せてほしい」と嘆願した。
忠度は父忠盛が熊野別当の娘に産ませた子で18歳まで熊野で過ごした。鄙で育ったのに文才があった。平安時代の末期は宮廷を中心に熊野信 仰がもっとも盛んで、舎人や采女に熊野の人が多かったはず。忠度はそんな采女の一人を母としたから熊野で過ごしたとしても教養という面で都人に劣ることは なかったと思われる。
志賀とどういうかかわりがあったか知らないが、「ながら」は「長等」にかけたもの。熊野検校を三井寺の長吏が兼任していたため、後白河法王、平家、熊野、三井寺の連想から辞世に大津、長等山の桜をうたったのだろうと想像している。
大津は天智天皇が即位した地。日本書紀によれば、景行、成務、仲哀の三代の天皇も高穴穂宮に都した。筆者の初任地でもあり思い出深く、比叡の稜線が琵琶 湖に落ち込む眺めを日々楽しんだ。春、桜の季節は朝もやが湖面をうっすらと覆い、やがてさざなみがにぶくきらめく。なんとも気だるく長閑な時が流れる。
松尾芭蕉はしばし庵を結んで「行く春を近江の人を惜しみけり」とひねった。近江の春は実にいい時間が流れる。忠度もそんな春を楽しんだに違いない。(平成の花咲爺)