もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし

 時代は平安後期、場所は大峯山。大自然と対峙する日々、まだ春は浅く寒さもあったろう。単身、修行中に出会った山桜にいとおしさを感じ、一本の山桜に語りかけた。

「山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。」

 作者は行尊(ぎょうそん。1055~1135)。並みの修験僧ではない。三条天皇のひ孫で、父親は源基平。そう、源氏の姓は清和天皇以外にも多くの天皇 を祖にいただく。行尊は幼くして父を亡くし、園城寺(三井寺)で出家。大峯、葛城、熊野などの各地で修験道の修行に励み、晩年に園城寺の長吏そして天台座 主にまで上り詰めた。平安時代の天台の高僧のイメージは定まらないが、行尊のイメージは極限まで自己を追い詰める苦行僧である。そんな行尊が修行の合間に 山桜に語りかける口調はなんともやさしげだ。

 当時、熊野本宮、那智大社、速玉大社の熊野信仰があったが、まだ修験道者を中心の信仰で一般人の立ち寄る場所ではなかった。その修験道の世界に白河上皇 を連れて行ったのが、行尊の師だった増誉である。増誉は熊野案内の先達(せんだつ、道案内人)を務め、その功績により、熊野をつかさどるトップ役である検 校(けんぎょう)となった。

 増誉が上皇の先達を勤めたのは一回かぎりで、その役割は二代目検校となった行尊に引き継がれた。庶民による熊野詣が盛んになったのは鎌倉から室町期にか けてで、「アリの熊野詣」といわれるほど貴賎を問わず大勢の人々が熊野に押し寄せることになった。この熊野詣ブームの先鞭をつけたのがまさに行尊だった。 覚えておいてほしい名前である。(平成の花咲爺)