桜のうんちく (3) 元祖、西園寺
花さそふ嵐の庭の雪ならで
ふりゆくものは我が身なりけり
小倉百人一首でおなじみの一首。作者、入道前太政大臣は藤原公経のこと。鎌倉時代前期の公家である。頼朝の妹の娘を妻としたことから、幕府と親しく、外孫にあたる藤原頼経を実朝の後の将軍後継者とした。
10年前、京都に住んでいたころ、金閣寺(鹿苑寺)は足利義満が北山にあった西園寺の跡地に建築されたと聞いたことがある。西園寺って寺名だったのだと いうことを始めて知った。平安時代はほとんどの貴族が藤原姓を名乗っていた。お互いを呼ぶ時に住まいの名で呼び合い、やがてそれが苗字のようになった。近 衛や九条、三条らの姓(かばね)も藤原である。
幕府方の権威を楯に太政大臣にまで昇りつめ、権勢をほしいままにした公経は晩年、仏門に入って入道となり、西園寺を建立して住まいし、西園寺を名乗るようになったといわれる。
いまの金閣寺のあたりは北山のすそ野である。西大路の北詰の西側だから、平安京の区画を外れ、鄙びていたに違いない。たぶん、その広大な庭園に桜の木を たくさん植えて楽しんだのだろう。しかし、その公経も老いには勝てなかった。「ふりゆく」は「降る」に「古(ふ)り」を重ねたもので、降りしきる花嵐に老 いゆくわが身を嘆いたのである。(平成の花咲爺)