「江戸時代、日本にあった種痘」にはたくさんのメールをいただいた。不確かな知識をもとに驚きだけでコラムを書いたのだが、いただいたメールによって江戸末期の日本の医学について多くを学ばせてもらったことに感謝したい。

 ■注射の起源は1856年

 まずは注射について、松永さんから教えてもらった。注射の起源について、世界大百科事典(ネットで百科@nifty)の「注射」の項を書いた「佐藤祥之」「杉原正泰」両氏によれば注射の歴史は以下のようなことなのだそうだ。
 従来,注射器を発明したのはフランスのプラバCharlesGabrielPravaz(1791‐1853)とされ、注射器はその名を冠してプラバッツ注射器と呼ばれてきた。しかしプラバは実験動物の脈管内にものを入れただけで、器具も皮下注射器ではなかったようである。実際に初めて注射を行ったのは1853年イギリスのウッドAlexanderWood(1817‐87)とするのが通説のようである。その後、J.スコーダはジギタリスやサリチル酸などの皮下注射法を開発し、80年代には静脈注射も行われるようになった。この背景には、消毒、滅菌法の確立があり、薬剤を無菌化できるようになったことがある。しかし,注射が治療法の一つとして、普通に行われるようになったのは20世紀に入ってからで、秦佐八郎らによるサルバルサンの発明が契機になったといわれる。
 ウィキペデイアなどで調べてみると、確かにPravazという人が注射の原型を発明したことは確かだった。かん腸器にヒントを得たようである。それにしても注射が医療に使われたのが梅毒治療で、日本人が関与していたとなれば萬(よろず)としては看過できない。
 注射の発祥をきっかけにネット検索を続けた結果、その近代医学の歴史がたかだか100年程度しかないことも分かった。明治時代、日本にも多くの世界的医学者が輩出したのもそんなに不思議でないような気がした。

 ■種痘法を伝えた独立禅師
 種痘の中国からの伝来については、馬場さんから多くを学んだ。メールにいただいた禅文化研究所編「隠元禅師逸話選」(平成11年4月12日発行「法孫編」)の「独立性易」を全文記載したい。
 中国杭州に生まれた独立性易(どくりゅう しょうえき)禅師(1596~1672)は、明国が滅び清国となった戦乱に際し、東航し長崎に上陸した。承応2年(1653)、57歳の時である。そして、翌年来朝した隠元禅師の法が盛んなのを見て、そのもとに投じて出家し、隠元禅師が将軍家綱に拝謁するために江戸へ赴いた時にも随行した。
 独立は、俗名を載曼公といい、若い頃から医術を学んでいた。ある県の地方官をつとめていた時、天然痘にかかって多くの人々が亡くなっていくのを見て、「何とか救ってやれないものか」と、非常に心を痛めた。そして、いろいろと工夫を重ね、ついに一種の種痘法を発明した。天然痘のかさぶたを粉末にして、それを鼻孔に吹き入れるという方法である。効き目が非常によかったので、曼公は多くの人々にこの方法を施した。中国では、この載曼公を種痘の始祖としている。日本に渡来し、黄檗の僧侶となってからも、病人を見るごとに薬を施し、「人を済(すく)うのは菩薩の本行なり」と、よく治療した。そして、この種痘法は日本にも伝えられ、肥前の五島あたりには、その方法を伝える医師が多かったという。

 ■種痘は注射ではなかった
 西宮市に住む義弟の北垣さんは、「医師の掲示板サイト」で種痘について質問をしてくれて、いくつか参考になるメールをもらったと報告してくれた。佐賀藩から始まった日本の種痘は次のような困難を乗り越えて行われたということだ。
「手許に本がないのですが。江戸時代の種痘は注射で行なうものではありません。種痘用の小さい刃で皮膚を傷つけ、そこに痘苗を植えるやり方で行なっていたと思います。広める時も大変で、痘苗は乾燥や日光で不活化してしまうため、痘苗を植えた子供から次の子供に接種するための痘苗を取り、それをまた別の子供に植え・・・、と言うことを延々と続けて行かなければなりませんでした。」
「冷蔵庫も冷凍施設もなかった時代ですから、種痘を広めると言うのは、大変な労力、努力が必要だった様です。違う地域に種痘を持って行く時も、種痘苗を継代維持するために痘瘡罹病歴の無い子供をも何人もつれて行ったとか。恐らく日本で一番お詳しいのは順天堂大学の酒井シヅ先生であると思われます。」
「また故・吉村昭氏の「雪の花」と言う本も種痘黎明期を描いた小説です。当時の先人達の苦労の上に、天然痘の撲滅と言う輝かしい医学、医療上の結果が得られています。」
「私の知る限りでは、種痘を広めたのは、秋月藩の緒方春朔だと思います。緒方春朔は寛延元年(1748)、久留米藩士瓦林家に生まれ、医家緒方元斎の養子となります。医を志して長崎に遊学、吉雄耕牛に医学を学びました。そこで、中国清の勅纂による「醫宗金鑑」の第60巻にある種痘に注目し、日夜研究に没頭しました。」
「天明年間、父祖の地秋月に移り、住民の医療に尽くし、時の藩主黒田長舒に認められ藩医となりました。寛政2年(1790)2月14日、上秋月村(福岡県甘木市)大庄屋天野甚左衛門の2児に、鼻旱苗法による種痘を成功させました。これはエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功より6年早い時期です。緒方春朔のえらいところは、この種痘を広めるために自分のみの秘伝とせずに他の医師にも公開し、また種痘という概念を医師のみならず庶民にも理解させるため、寛成5年(1793)「種痘必順辨」を和文で著しました。さらに、寛成8年(1796)には、「種痘緊轄」ならびに「種痘證治録」を著しています。富田英壽先生のお作りになられたサイトが詳しく、かつ判りやすいです。」
 http://www.ogata-shunsaku.com/index.html
「明治開化期に日本が韓国の釜山で行った医療の記録に鼻で嗅ぐ方式の予防法の事が出ています。日本の医師は危険なのでこれを止めさせ、日本式の種痘を広めたようです。このサイトの「釜山における初めての近代医療」のところに書いてあります。」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi019.html

【種痘法の導入】

1796年ジェンナー(英)牛痘利用の種痘法発見
1847年佐賀藩主が侍医から牛痘法を聞き、藩医に牛痘苗とり寄せを指示
1848年オランダ商館医官が痘漿を持参、摂取不成功。藩医は瘡蓋を提案
1849年瘡蓋が入荷、藩医は息子に接種して成功、藩主も子息に、全国へ波及
1858年蘭学者の拠出金で神田お玉が池に種痘所、江戸にも種痘普及
1860年幕府が種痘の効果を認め、官立の種痘所に。後の東大医学部の前身
1861年種痘所が西洋医学所に改称、1863年医学所に、西洋医学を認知。漢方医vs西洋医の洋医の拠点に、漢方の凋落、洋方の台頭に役割
1858年蘭学者の拠出金で神田お玉が池に種痘所、江戸にも種痘普及。

「このあたりの話は手塚治虫さんが自らの曾祖父、曾々祖父の手塚良庵・良仙をモデルに描いた「陽だまりの樹」に詳しい描写が出てきます。幕末から維新にお ける肥前佐賀鍋島藩の、近代医学史上の足跡は多大なるものです。幕府から、長崎の警護を任されていましたので多くの外国の情報を得て、それらへの危機感と 同時に、その時代の藩の中で唯一目覚めて、早くから西洋・蘭学の重要性を認識し、実学に励んだようです。近代医学史上にも、多くの先達を輩出していま す。」
「日本で初めて牛種痘に成功したとされるのが、佐賀藩の藩医・楢林宗建で、我が息子に接種しています。1849年、同時期に藩主直正公の嗣子に種痘が為されています。これに よって、全国に公に広まったとされています。」
http://www.koseikan.jp/syutou.html
「肥前出身で、将軍の侍医となり医官最高の奥御医師であった、伊東玄朴は、神田に(お玉が池種痘所)を開所し、これが発展的に幕府西洋医学所となり、後の 東京帝國大学医学部 の前身です。同じく当時、オランダ医学やイギリス医学にほぼ傾きかけていた流れに強力に反対して、明治政府にドイツ医学を採用決定させたのも、肥前出身の 相良知安で す。彼は、後に医学 開業試験の提言を行い、これが医師国家試験のルーツです。」
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020621c.html
http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html