江戸時代の日本の医学が侮り難いものだったことを示す記録が佐賀県伊万里市の旧家から見つかった。記録は1854年(嘉永7)、種痘が未実施だった村の子どもたち5人に種痘を接種し、数年で150人に接種したというものである。5日の佐賀新聞に掲載されていた。
 接種がどういう方法で行われたかは記事からは読みとれないが、”予防接種”が行われていたことはちょっとした驚きだった。
 誰もが不思議に思うのは江戸時代に果たして注射なるものがあったのかということである。日本の注射がどんなものであったのか実はイメージがわかない、現在のようなものなのか、あるいはまったく違う形を形をしていていたのかも分からないが、記事によれば「接種」ということになっているから注射でなかったかもしれない。
 イギリスのジェンナーが子どもに種痘の実験をしたのは1796年のことだった。教科書で習った時、子どもに注射をしているジェンナーの絵が添えられていた記憶がある。
 ジェンナーの実験が正式に発表されたのは2年後の話だから、その約50年後に日本では普通に種痘が行われていたことになる。鎖国時代とはいえ、佐賀藩は相当に速いスピードで西洋医学を受け入れていたことになる。
 佐賀藩の種痘とは別に、お隣の久留米藩では中国から伝来した”種痘”を実施していた。天然痘の瘡蓋(かさぶた)を粉にしたものを鼻薬のように処方したとされる。この方式の種痘を行ったのは藩医の緒方春朔だった。1789年(寛政元年)のことだからジェンナーよりも7年早かったことになる。ちなみに杉田玄白らが『解体新書』を刊行したのは1774年(安永3年)だった。
 また紀州藩の華岡青洲が妻を実験台にして麻酔薬を完成させ、母の乳がん手術を行ったのは1804年(文化元年)だった。これは世界に先駆けた麻酔手術だった。
 江戸時代の記録をきっかけにいろいろ調べたことを書いたが、注射の起源は分からなかった。医学部で学んでいる長男に頼んで先生に聞いてもらったが「江戸時代に注射があったとは思えない」といった程度で分からない。知っている方がおられたらぜひ教えてほしい。

 【訂正】2月11日付「穴あきダムを嗤う」で「大雨の時に穴を閉める」と書きましたが、本当は洪水の時も閉めないそうです。国交省の方から指摘がありました。お詫びして訂正します。