産経新聞創刊60周年の特別寄稿として司馬遼太郎が「風塵抄」を連載した。1993年6月のことだと思う。捨てられずにいる一枚の切り抜きが遺っている。名前を出さないが、父親、伴正一のことを「実直」な日本人の一人として書いた。父親からパキスタン勤務だったころ、一時帰国したときに、司馬遼太郎に会って話をしたことは聞いていた。会って「失望した」という話も記憶にあった。

 実直についてつづける。
 この徳目とも性格とも性分ともつかぬものが、日本人の平均的特徴であることはのぺた。とくに歴史的にみて、そうである。
 日本の国家像にしても、かわらない。(ただし軍閥が支配した昭和のはじめの十五年という、戦争狂時代はさしおく。あの時代は、常態的日本史にとって、”鬼胎”ともいうべき時代で、なぜ”鬼胎”だったかについては、べつの場所でのべた)
      *
 たとえば、近代化へ出発した明治維新(1868)には、日本が手に持っていた外貨はゼロだった。その上、旧幕府の外債務まで背負うてもいたし、外貨を稼げるものといえば、生糸ぐらいで、しかも外国には頼れなかった。頼れば植民地にされてしまう時代だった.
      *
 そんな貧しいなかから、外債を返済しつづけたし、また祖国防衛戦争ともいうべき日露戦争での外債も、その後、窮乏のなかから返した。
      *
 実直というのは、無用の金を他から借りないことでもある。たとえ借りても、その間、虎と同穴しているようにおぴえ、暮らしを切りつめるという小心さと表裏している。
      *
 が、世界はさまざまである。アジアには、さんざん他国から輸入をして代金を支払わない国もある。そのことが当該責任者の功績にもなっていた。決済上の信用をなくせば国際的に相手にされなくなり、亡国につながるのに、支払わないことが”愛国”だったのである。
 「あの借金は、じつは支払えません」
 と、わざわざ大統領が、外国特派員たちをよんで発表する国も、南半球にあった。世界はまことに同質ではない。
      *
 アジアでは、ときに国家の外交行為でも”パガジ”がおこなわれる場合もある。
 ”パガジ”とは、朝鮮語である。ヒョウタンの一種で、乾燥させて米や豆を容れる容器になったり、ヒシャクとしてつかわれたりする。仮面劇のお面も、パガジでつくられる。転じて別の意味にもなる。毛ほどの損害を電柱ほどに誇張して、「一億円出せ」という場合にもつかわれるのである。意味は、吹っかける実直とは、正反対の意味といっていい。
 (あの外交は、パガジだな)
 テレビの視聴者として、感無量の思いで見ていた外交交渉があった。
 幸いにも、テレビの画間のなかの日本側の代表者は、ひたすらに”実直”を通した。
 そんな、ふつう実直な側は、芝居の弁天小僧の場面のおどされる側の手代じみていて、みじめなものである。        
 が、この場合の日本側の外務省の代表者は、実直という古風な実質のなかに、勇気と正義感と公正な法感覚を加えて、まことに”毅然たる実直”をつらぬきとおした。
 (実直もまた、普遍的になりうるではないか)と、私はあざやかな思いをもった。さらには、ここで実直が敗ければ、今後の日本の対アジア協調外交の全体が鈍ってしまうのではないかとおもい、その会談継続と進行をみていた。
 ありがたいことに、日本側が実直を通したために、パガジ側とは幸運な物別れにおわった。
      *
 そのときの日本側代衷の顔と名は、私には記憶があった。
 二十余年前に一度だけ訪ねて来られた人で、その後、たがいに音信がない。
 当時、たしか南アジアの日本大使館の一等書記官をつとめておられた。たまたま帰国されたとき、思いあまったような表情で、”日本は大丈夫でしょうか”といわれた。当時、毛沢東思想ばりの学生運動が全国にひろがっていて、それらのニュースを外国で読んでいると、おそらく”日本沈没”といった危機感を感じさせるものがあったのに相違ない。
 その人は、自分のような人間が、安然と宮仕えしているより、なにかなすべきことがあるのではないか、といった。官をやめるという。
      *
 このひとは、土佐にしかない姓と、その風土の人らしい気骨をもっていた。
 幕末、土佐人の多くが風雲の中に身をすてたが、ほとんどが実直なひとぴとだった。その願望は、功名よりも死処を得たい、ということで共通していた。私の訪問客は、そういう風土からいきなり出てきたような骨柄をおもわせた。
 当時、その人は、おそらく私の不得要領な応待に失望してそのまま任地にもどったのだが、テレビで見るそのころ顔はすでに老い、頭髪には白い風霜がつもっていた。
 テレビを見つつ実直もまた対外的な基準になりつるということを、当時とは逆に、私に教えてくれた。
 この外交は、今後のアジアの協調外交に、一つの基準の種子をまいたといえるのではないか。(五回連載)