鎮魂・前田さん僕も寂しい

  そのむかし、かぼちゃに前田龍男という人がいた。みんな「まえだっち」と呼んでいた。かぼちゃというのは大阪の東高麗橋の居酒屋である。昼飯もやっていて 最初は共同通信の大阪支社の遠藤誠子さんという女性に連れて行ってもらった。女将というか女性経営者は東佳子という。奈良県天理市の人である。当然ながら 今もその店はある。
 なぜかそのかぼちゃに僕は通うことになった。佳子さんとはどういうわけかうまがあった。ちょうど京都の五条坂で陶器市があってその話をしたら、「私もきのう行っていたの」と返事があったのがきっかけである。
 前田さんはカウンターの一番の奥にいつもいて細面の笑顔を見せていた。といえばかっこいいが、関西弁のべらんめえ調で物言う男だった。この前田さんは不思議な人だった。不思議というより、口から生まれたような人だった。口より行動の方が速かったのかもしれない。議論は始まると5分と黙っていられない人 だった。
 よく覚えていないことが多いので、前田さんとどうやって知り合ったかは定かでない。いずれにしても8年前のことである。多分、佳子さんが紹介してくれたのだと思う。
 僕は当時、デスクとなって共同通信社の大阪支社経済部に転勤していた。デスクになるというのは記者にとって死を宣告されるようなものだった。書くことを 辞めなければならなかった。普通の会社人生は昇進すれば、それなりに大きな仕事ができるようになるのだが、記者という職業は違って、仕事の内容がまるで変 わってしまうのである。
 この空しさに僕はホームページを開設して、いつのまにか共同通信社とは別の個人のメディアをつくってしまっていた。
 前田さんは僕がつくった独自のメディアである「萬晩報」をいたく評価してくれた。ネット上も少なからず反響があったのだが、生身の読者として当時の「萬 晩報」を評価してくれたのは、前田さんとカネボウの岩間孝夫さんだけだった。独自のメディアといっても読者は数百人しかいなかった。
 大阪市の外郭団体が主宰するシンポジウムで僕と岩間さんが話をすることになった時にはいつのまにか「萬晩報」をプリントしたTシャツを着て応援に着てく れた。萬晩報の縮刷版をつくってくれたのも前田さんである。つくっただけではない。800部が完売できたのは前田さんがかぼちゃの客に販売を強要してくれ たからなのだ。
 僕がかぼちゃに通うようになったのは佳子さんのためなのか、前田さんのためなのか分からない。多分、両方だと思う。前田さんの前世というか前職は知らな かった。霞を食って生きているような人だった。カウンターの奥で酒を飲んでカンバンとなれば帰っていたのだろう。とにかく僕の方は京都に住んでいたので午 後11時40分の最終特急に乗らなければならなかったから、前田さんがいつどうやって帰ったのかは知らない。でもいつもカウンターの奥に座っていて、お客 さんの会話のかなめのような役割をしていた。こういえばかっこいいが、だれの会話にも入っていって”おせっかい”をしていたのだ。
 ある時、前田さんに聞いたことがある。「あんたはなんでここの主人みたいな顔をしているんだ」と。佳子さんが口をはさんで「前田さんは私の前の会社の上司で人事部長だったのよ」と言った。
 スイス系の繊維関連の会社だったらしいが、その会社がバブル崩壊の後、リストラをするということになった。人事部長の前田さんはその矢面に立たされた。 「僕は人を切れない。人を切るのだったら僕がまず辞める」といってその会社を辞めた。前田さんが辞めたからといってその会社はリストラを辞めたわけではな かった。佳子さんもその流れの中で職を失った。よく分からない。男気と女気がその店にいたのである。
 職を失った佳子さんは、かぼちゃを開いたが、前田さんは職があったのではない。ほとんどかぼちゃの用心棒的に毎晩、店にいた。大阪のことだから店を開け ば、その筋の人がやって来るに違いない。「俺が佳子を守るのだ」。そんな気分でカウンターの奥に鎮座ましましていたのだ。かぼちゃの後見人の気分だった。
 前田さんは、用心棒といったって本当にその筋の人が来たならば、ひとたまりもないぐらいきゃしゃな体つきだった。口先だけは達者だったから、その剣幕に その筋の人もまかれたかもしれない。でも本当に暴力沙汰になれば耐えられる体格ではなかった。そうはいうのだが、かぼちゃの客はみんな前田さんにだけは一 目を置いていた。体つきがきゃしゃであってもその存在感は別格だった。人格というか生まれ持っていた人としての愛嬌が力を上回るものを持っていた。
 かぼちゃに一度行けば分かることだが、ここのカウンターに座れば、みんな友だちになる。そんな雰囲気がある。そこのところの気配りは佳子さんの生まれ 持った気配りとでも言えばいいのかもしれない。だから何事にも盛り上がり、週末は山歩きだ、陶器づくりだ、落語だと、知らぬ同士が集まって楽しむ。前田さ んはそのどれにも参加していたから、かぼちゃの用心棒どころかほとんど”経営者”のような気分だったのかもしれない。
 その前田さんが昨年9月、突然亡くなった。赤いちゃんちゃんこを着たのはつい先日のことだった。だからかぼちゃの仲間はみんな寂しい思いをしている。僕 も寂しい。鎮魂のコラムをいつか書きたいと思って4カ月が過ぎた。前田さんごめんなさい。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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