【トビリシに来たニーナ13】私のグルジア
執筆者:兵頭 ニーナ【ギターボーカリスト】
グルジアという国を聞いたのはソヴィエト連邦時代にモスクワを訪れたはるか昔のことだ。「モスクワの台所」というほどに気候温暖で野菜やくだものが豊富だとか、商売上手なグルジア商人とか黒海に面した素晴らしい保養地があるとか色々母に聞かされ少なからぬ興味を持ったのを覚えている。
モスクワに1カ月滞在中、何度かグルジアレストランへ行こうとしたがいつも満員でついに食べることなく残念だった。
それから10数年、縁あって「百万本のバラ」をレコーデイングして売り出すにあたり、スタッフ一同「ピロスマニ」というグルジアの天才画家の半生を描いた映画を見せられた。
何故なら「百万本のバラ」の主人公はく「ピロスマニ」であったから・・・・。
1850年代生まれのピロスマニの時代の風景や人々の生活、アラビックな不思議な文字、彼の描いた絵を差し込んでいくめづらしい映画製作法等など1時間ちょっとの短いフィルムだったけれど強い印象を受けて、今でも私のお気に入り三大映画のひとつになている。
まもなく日本に来たヴィクトリアとお友達になり、彼女の故郷黒海沿岸スフミの話を聞いたりグルジア料理をご馳走になったりお土産をもらったりと、どんどんグルジアが近くなっていった。いつの日かグルジアへ・・・彼女の故郷スフミへ行って見よう・・・・ピロスマニの美術館へもぜひ・・・・・と夢がふくらんだ。
しかしペレストロイカの時、グルジアではアブハジアとの内戦が始まっていた。
ヴィクトリアの親戚や友達が戦争に巻き込まれ悲惨な状況にあると聞き胸が痛んだ。グルジア行きが少し遠のいてしまい数年が過ぎた。
今年トビリシ行きを決めてから地図やインターネットでグルジアを調べて見るに、ヨーロッパのもっとも南東に位置し、アジアというにはかなり西の果てにありロシアの最南端になり、さりとて中近東でもない日本の四国程の小さな国であった。
勉強するほどに今まで何も知らなかった自分に驚いた。私でさえこれだから友人知人にグルジアの話をしても殆どわからない。
「えっ?それってどこ?アメリカ?」なんて聞く人もいた。
言葉もかなり独特であると読んだがそんなに難しくはないだろうとたかをくくっていた。がどうしてどうして歌手として7,8カ国ぐらいの原語の歌を唄う私でも、いまだに簡単な単語を幾つか覚えたにすぎない。歌は丸暗記して発音だけ何度もチェックしてもらうがなかなか大変だ。「勉強を手伝いましょうか?でもグルジア語は本当に難しいですよ」と言われ今も迷っている。もっともホームステイ先がロシア語と日本語で通じてしまうのもじゃましてるのだろう。
しばらく住んで色々とおもしろい言葉を発見した。まづヴィクトリアのカフェの名前を「つる」と決めた時、グルジア語では「ツェロ」だと聞いてビックリした。
「ちょっと」を「ツォータ」、「はい」は「ホウ」「キー」「カイ」、「いいえ」は「アーラ」だ。
アーラ、アーラは電話中の会話でもっとも良く聞く言葉で最初は「もしもし」だと思ったくらいだ。なんでそんなにアーラ、アーラ〔いいえ、いいえ)言うの?と聞いたらあんまり意味なくアーラ、アーラいうらしい。そうよね、そんなに否定ばかりしてたら会話にならんもんね・・・。それにしても父親がママ、母親がデッダというのもまた可笑しい。赤ちゃんは毎日母親を見つめて乳を飲みある日初めて言葉らしきもの発する時、どう考えてもアーアーかマーマーだと思うんだけど・・・・。
「こんにちわ」は「ガマルジョブ」。「ありがとう」は「マドロプ」。「とてもありがとう」は「ディ、ディ、マドロプ」とか「ディ、ディ、ディ、ディ、マドロプ」とかいう。アパート周辺のショップの人達とはすっかり顔見知りになり、最初はロシア語だった挨拶がグルジア語で言えるようになってとてもうれしい。
グルジアの独特なおみやげ物のひとつに、土で練った素焼きの土器のようなものがあるのだけどそのまんま「ドキ」と言うのを聞いたときは本当に本当にドキッとしましたね。はるか日本と離れたこの小さな国グルジアと意外なところでこんな共通点があったなんて・・・・・・・。
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