執筆者:中澤 英雄【東京大学教授(ドイツ文学)】

今年2005年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表して100周年、彼の死後50周年ということで、世界各地でアインシュタイン年の行事が催されている。

ドイツ http://www.einsteinjahr.de/

イギリス・アイルランド http://www.einsteinyear.org/

(このサイトになぜ日本語表記があるのだろう?)

アインシュタインは日本と深い縁がある。E=mc2という公式で有名な特殊相対性理論は、物質がエネルギーに変換されうることを示した。言うまでもなく、広島・長崎に投下された原爆は、この公式の現実化であった。

原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身であった。1939年8月、彼は数名の科学者たちの代表として、アメリカ大統領ルーズヴェルトに原爆の製造を進言した。ドイツ系ユダヤ人である彼は、ヒトラーが政権を取った1933年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住していたが、ユダヤ人迫害を進めるドイツが原爆開発に着手したとの情報に接し、強い危機感をいだいたのである。

アインシュタインはその後のマンハッタン計画にはまったくノータッチであった。原爆が完成した時にも、彼は日本に投下することに反対した。彼は広島・長崎の惨事に直接の責任はない。しかし、彼はこのニュースを痛恨の想いで聞いたのであった。

アインシュタインは1922年(大正11年)に来日し、大の親日家になっていたからである。

■来日

アインシュタインは、雑誌・改造社が企画した日本講演旅行を承諾し、1922年10月8日、妻のエルザとともにマルセーユで日本郵船の北野丸に乗船した。彼がまだ香港から上海に向かう船上にいた11月10日、1921年度のノーベル物理学賞が彼に授与された。このニュースは、相対性理論という神秘的な学説を樹立した世紀の天才物理学者に対する日本人の熱狂的崇拝をいやが上にも高めた。

11月17日に神戸に上陸したその瞬間から、日本中、彼が行くところ、アインシュタイン・フィーバーが巻き起こった。それは、最近のベッカム様人気やヨン様ブームどころの規模ではなかった。物珍しいものに熱狂する日本人の国民性は、昔も今もあまり変わっていないようだ。あまりの騒動に最初は驚きあきれ、時には殺人的なスケジュールに閉口していたアインシュタインであったが、その背後に日本人の純粋な敬愛の念があることを知って、彼は日本と日本人を心から愛するようになった。

ここでは、日本におけるアインシュタインを詳しく描いている金子務著『アインシュタイン・ショック』(1)(2)(河出書房新社、1981年)と、杉元賢治編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』(講談社、2001年)を中心に、アインシュタインの日本および日本人観を紹介したい。

まず北野丸に乗船した最初の日の印象――

「乗組員(飾り気のない日本人たち)、友好的、まったくペダンティックでなく、個性的なところはない。日本人は疑問を持たず非個性的で、自分に与えられた社会的機能を晴れやかに尽くし、思わせぶりもなく、しかもその共同体と国家に対して誇りを持っている。その伝統的な特色をヨーロッパ的なものの故に放棄して、その国民としての誇りを弱らせることはない。日本人は非個性的だが、実際はよく打ち解けている。おおむね社会的存在として自己自身のためには何も所有しないかのようであり、何かを隠したり秘密にしたりする必要はないようだ。」(金子(1)199頁)

アインシュタインの日本人に対する第一印象は、その「非個性」と「共同体と国家に対する誇り」である。これは、欧米人と比較して日本人の特色としてあげられる集団主義に、彼が最初に違和感をいだいたことを示している。しかし彼は、ヨーロッパ中心主義的に、それをすぐさま否定的評価につなげることはしなかった。彼は事実は事実として冷静に観察している。日本人と日本文化により深く接触するにつれ、彼は「非個性」の背後にある純真なものに気づいていくのである。

■脱西欧の夢

アインシュタインが日本行きを承諾した背景には、彼の東洋への憧憬があったように思われる。すでにベルリンで数名の日本人が彼の住まいを訪問していた。彼らの報告によると――

「もともとベルリンのアパートは、東洋趣味の絵や陶製人形で飾られ、茶器も菓子器もそれで統一していたという。《私が行きたいのは東洋だけ》と、アインシュタインは日本人の来訪客にしばしば語っている。」(金子(1)196頁)

神戸に上陸したときの記者会見で来日の目的を聞かれて、彼はこう答えている――

「それは2つあります。1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめてみたい――とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きしてみたい――ということ、もう一つは、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことは自分の使命であると考えることです。」(金子(1)28頁)

アインシュタインもまたハーンと同じように、脱西欧の夢を見ていたのかもしれない。

第一次世界大戦敗北後の社会的・経済的混乱の中で、ドイツでは反ユダヤ主義が高まっていた。フランスとの賠償交渉をしていたユダヤ系の外務大臣ラーテナウは、1922年6月に暗殺されていた。当時、学術で文字通り世界最高峰のベルリン大学正教授の地位にあったアインシュタインも、ユダヤ人であることを理由に度々不快な経験を味わっていた。

日本は第一次世界大戦では戦勝国になっていたが、まだ軍国主義がそれほど濃厚にはなっておらず、いわゆる大正デモクラシーの自由な雰囲気が残っていた。しかし、あとでも見るように、アインシュタインは日本に忍び寄る軍国主義の気配も鋭く感じている。ともあれ、彼にとって日本旅行は、騒然としたドイツから離れられる、心休まる解放の一時となったのである。

■国民性、自然、芸術

来日2週間目にアインシュタインは、雑誌『改造』のために、「日本における私の印象」というエッセイを書かされている。ここでは杉元賢治氏の訳からその一部を紹介しよう。

「もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。・・・

しかし日本では、それがまったく違っています。日本では、個人主義は欧米ほど確固たるものではありません。法的にも、個人主義をもともとそれほど保護する立場をとっておりません。しかし家族の絆はドイツよりもたいへん固い。・・・」(杉元141頁)

アインシュタインはこのように、欧米の個人主義が行き過ぎであることを指摘し、むしろ日本の家族主義、集団主義に親しみを感じている。この文章を今日の我々が読むと、現代の日本も相当に「すさまじい個人主義」の社会になりつつあることに気づく。経過した時間の長さと社会の変化を思わずにはいられない。

彼はさらにこう続けている。

「日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれる一つの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。・・・

個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそう思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優れていると思われる同情心の強さゆえでありましょう。」(杉元142頁)

来日2週間で彼はすでに、ヨーロッパ人よりも自己主張の少ない日本人の「非個性」、感情表現の抑制の背後に、ヨーロッパ人よりも「同情心」に富んだ繊細な魂を感じ取っている。

今日でも欧米人の中には、何年日本に住んでいても、日本の生活や文化をすべて欧米中心的な価値観でしか判断できない人びとが大勢いる。それに比べると、これは希有な観察力、感情移入力と言わなければならない。アインシュタインは、科学者として超一流であったばかりではなく、人間としても、偏見のない豊かな感受性に恵まれた人物であった。彼は、人種や宗教や文化の違いによって他国民を軽蔑することがなかった。

そういうアインシュタインの人間性が知られるにつれ、日本人はますますアインシュタインが好きになり、尊敬するようになった。

アインシュタインが日本で最も強い感銘を受けたのは、日本の美しい自然と、自然と一体になった芸術であった。やはり「日本における私の印象」から――

「この点〔日本の芸術〕、私はとうてい、驚きと感嘆を隠せません。日本では、自然と人間は一体化しているように見えます。・・・この国に由来するすべてのものは、愛らしく朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

かわいらしいのは、小さな緑の島々、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。」(杉元142~3頁)

■離日

日本で数々の心あたたまる歓待を受けて、12月29日、アインシュタイン夫妻は門司港から日本郵船の榛名丸に乗船し、帰国の途についた。

離日の前日、『大阪朝日新聞』は彼の日本国民への感謝のメッセージを掲載した。

「予が1ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、また日本国民の如く爾(しか)く謙譲にして且つ篤実の国民が存在してゐたことを自覚したことである。世界各地を歴訪して、予にとつてまた斯くの如き純真な心持のよい国民に出会つたことはない。又予の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然にかなひ、一種独特の価値がある。故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。又福岡では畳の上に坐つて見、味噌汁も啜つてみたが、其の一寸の経験からみて、予は日本国民の日本生活を直ちに受け入れることの出来た一人であることを自覚した。」(金子(1)245~6頁)

ここでもアインシュタインは、日本人の国民性と芸術と自然をほめることを忘れない。翻訳や郵送の時間を考えると、この文章は数日前に書かれたものであろう。福岡の味噌汁のことが触れられているので、12月25日かもしれない。彼は乗船のためにそれから門司に移動した。

新聞の文章はやや社交辞令的であるが、12月26日の門司での記者会見では、彼はもう少し率直に印象を語っている。

「日本にきて特に気になるのは、いたるところに軍人を見かけ、平和を愛し平和を祈る神社にも武器や鎧が飾られているのは、全人類が生きていくのに不必要なことと思います。それからもう1つは、大阪の歓迎会では会場が日本とドイツの国旗でうめつくされていて、日独親善の気持ちは感謝しますが、軍国主義のドイツに住みたくないと思っている私には、あまりいい気持ちはしませんでした。」(中本静暁著『関門・福岡のアインシュタイン』新日本教育図書、71頁)

あらゆる日本への賛嘆にもかかわらず、平和主義者アインシュタインは日本の軍国主義を受け入れることができない。彼のこの言葉は、その後の日独関係を知っている私たちには、まさに予言的に響く。彼はさらにこう続けている。

「また、いたるところで外国のものにかぶれているのは、日本および日本人のために好ましくありません。着物は非常に優美だが、活動に適していないので、これからは洋装になっていくでしょう。とにかく日本の風習の中で、保存すべきものまで破壊しようとする気風には感心しません。日本の建築はすみずみまで手が入り込んでいて、外国の彫刻をみるようでした。一言でいえば、日本は絵の国、詩の国であり、謙遜の美徳は、滞在中最も感銘をうけ忘れがたいものとなりました。」(同、71~2頁)

何度も見てきたように、アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建築をはじめとする日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であった。しかし、欧米化の潮流の中で、日本が伝統的な美質を失いつつあることも、彼は鋭く見抜いている。

もちろん多少のお世辞も含まれて入るであろうが、これらのメッセージは、アインシュタインの日本と日本人への敬愛の念を証明している。船上で日本に別れを告げるアインシュタインの目には涙が浮かんでいたという。日本は彼にとってまさにアルカディア(楽園)になったのである。ドイツに帰国後も、アインシュタインは手紙を通じて日本人とたえず交流を続けた。

■原爆と世界平和運動

広島に原爆が投下されたニュースを聞いたとき、アインシュタインはドイツ語で”Oh,weh!”(ああ、なんたることだ!)という悲痛な叫びをあげたきり、沈黙したという。彼は後年、

「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それはルーズヴェルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です」(金子(2)270頁)

と語った。また、

「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」(ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』工作舎、188頁)

とさえ述べている。

アインシュタインはドイツにいた当時から断固たる平和主義者であったが、この罪意識は、晩年の彼をいっそう強く平和運動に駆り立てた。それは世界政府建設の運動である。

アインシュタインの平和運動にも、日本人が関わっていた。

1922年の来日の時、アインシュタインの通訳として彼の身の回りの世話をしたのは、稲垣守克であった。アインシュタインは彼を親しみを込めて「ガキ」と呼んでいた。

終戦後、財団法人「世界恒久平和研究所」に関係していた稲垣は、1947年(昭和22年)、アインシュタインに協力を求める手紙を書いた。稲垣の要請によって書いたアインシュタインのメッセージは、昭和23年の年頭に朝日新聞に発表された――

「このような〔原爆のような大量破壊兵器の〕不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立することである。

こういう広範な権限をもつ世界政府の樹立は、すべての国の民衆が次のことを十分に理解した時にのみ可能である。すなわち諸国民の伝統的思想と気持にこれほど適応した、そして安い道はないということを。

こういう根本的変化を可能ならしめ、そしてこれを手おくれにならないうちになしとげるためには、すべての国で教育啓発事業を熱心に辛抱強く行うことが必要である。」(金子(2)240頁)

稲垣は、アインシュタインの後押しもあって、ジュネーブの「世界連邦政府のための世界運動」と連携を取り、日本に「世界連邦建設同盟」(世連)を作った。稲垣が理事長で、総裁に尾崎行雄、副総裁に賀川豊彦をすえた。のちに湯川秀樹も世連にかかわるようになった。世連の組織は現在も存在している。

1949年にソ連が原爆実験に成功、53年にはアメリカに先んじて水爆実験にも成功した。アメリカも54年にマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験に成功。その時、死の灰をかぶったのが第五福竜丸であった。

世界の行く末を憂慮したアインシュタインは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに1955年4月11日、核兵器廃絶と戦争廃止を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。その2日後、彼は病に倒れ、18日に帰らぬ人となった。彼の遺言とも言えるこの宣言には、湯川秀樹ら世界の著名な学者9名が署名に加わり、のちのパグウォッシュ会議へて発展していくことになった。

■アインシュタインの予言?

ところでインターネットの世界には、「アインシュタインの予言」という奇妙な文書が出回っている――

「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。

一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。

私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。

世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時が来る。

その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。

この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。

世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。

それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。

われわれは神に感謝する。

われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」
http://www.aiweb.or.jp/en-naka/column-5/column.htm

これは、清水馨八郎氏の『日本文明の真価』(祥伝社黄金文庫、平成14年)から取られているという。ほかにも、多少文言は違うが、インターネットには似たような文章があちこちにある。

清水氏の著書を参照したが、上の文書とは文言が若干異なっているが、ほぼ同じである。しかし、清水氏の著書にもその出典が出ていない。清水氏も、何かの本から引用したのだろう。引用していくうちに、少しずつ文言が異なってしまい、色々なヴァージョンがインターネット上に出回る結果になったものと思われる。私も、昭和40年代後半~50年代にこの種の文書を読んだ記憶があるが、その本は、書棚のどこかに紛れ込んで見つからなかった。

今回、アインシュタインと日本というテーマに関係する本を何冊か読んでみたが、このような「予言」はどこにも掲載されていなかった。明らかに、新聞や雑誌に発表された文書ではない。それでは個人的な私信なのであろうか? この文書はそういう趣からもほど遠い。

おそらくこれは創作(インチキ)である。その理由はこうである。

来日の時、アインシュタインは天皇あるいは天皇制にはほとんど関心を示していない。彼は赤坂離宮での観菊御会に招待され、皇后陛下の謁見を賜わったが(大正天皇はご病気、摂政宮〔のちの昭和天皇〕は関西での陸軍大演習のためお留守)、この日の彼の日記には、フロックコートを借りるのに苦労したこと以外には、とくに目立った記録はない(金子(1)172頁)。

日本で彼の印象に残ったのは、いつでも自然と芸術の美しさ、そして日本人の素直な国民性であり、日本の歴史への関心は薄かった。

彼はまた、どちらかというと社会主義的な信条の持ち主であった。彼は1930年に、彼をキリスト教に改宗させようとしていたヘルマンスにこう語っている。

「ご存じのとおり、私は社会主義者だ。関心があるのは、すべての人の幸福と、社会主義国建設のために個人の知的自由を獲得する必要性を若い人たちに教えることだけだ。」(ヘルマンス27頁)

そういう彼が君主制の一種である天皇制をわざわざ賛美するということは、まずありそうもない。また、戦後の彼の世界政府構想においても、「世界的な盟主」の必要性については一度も触れられていない。

アインシュタインの目が常に日本の一般民衆に注がれていたのに対し、上の文書は「一系の天皇」「尊い家柄」「尊い国」を強調する、典型的に右翼的な発想である。

さらに彼は、日本が西欧化の中で伝統的な生活文化を失うことへの危惧を表明していたが、「予言」は「近代日本の発展」を素朴に肯定している。

上の文書は、アインシュタインの思想とは相いれないのである。

古い伝統と近代的な科学技術の両立を誇ることは、いわゆる日本人論によく見られる発想である。日本の美点を外国人の口を借りて賛美するために、外国人になりすますという手法も時々見られる(イザヤ・ベンダサン=山本七平)。ここでは、自分の個人的信念をアインシュタインの名前によって権威づけているわけである。

このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。萬晩報の読者で、何かの情報をお持ちの方は教えていただければ幸いである。

■日本とアインシュタイン

1949年、プリンストンにアインシュタインを訪ねた稲垣は、彼を日本に再招待した。老齢でしかも健康を害していたアインシュタインは、

「いやもうどこにも行けない。こんど生まれ変わったら第一に日本を訪れよう」(金子(2)251頁)

と答えたという。

大好きな国・日本――直接的責任ではないとはいえ、自分はその国に原爆を落とすきっかけを作ってしまった。アインシュタインの心情は察するにあまりある。アインシュタインが生まれ変わったなら、まず第一に広島・長崎を訪れようとするにちがいない。そして、慰霊碑の前に額ずき、まず「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とつぶやくのではないか。

今年は相対性理論100周年、アインシュタイン死後50周年であるばかりではなく、広島・長崎原爆60周年でもあり、第1回原水爆禁止大会開催から50周年でもある。

1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、日本では原水爆禁止運動が高まり、翌55年に、第1回原水爆禁止大会が広島で開かれた。しかし、この運動には当初から社会党・共産党の政治的イデオロギーが持ち込まれ、日本の平和運動は政治に翻弄されることになる。左翼イデオロギーが、被爆国民・日本人の素朴な平和への願いを、反米・親ソ・親中という政治的目的に利用しようとしたことは紛れもない事実である。

ごく最近、北朝鮮は核兵器を所有していると公言し、アメリカもまた戦場で使える小型核兵器の開発を計画しているという。核の危機はいまだ去っていない。

「このような不幸を防ぐ道は只一つ、これらの兵器を確実に管理し、従来戦争突発の原因となったようなあらゆる問題を解決する機関と法的権限をもつ世界政府を樹立することである」という言葉は、今日でもますます強く妥当する。世界の現状はいまだアインシュタインの理想からほど遠い。

日本人はこの節目の時にあたり、日本の平和運動を、右翼的であれ左翼的であれ、政治的イデオロギーから解放し、国民の大部分が心から賛同できるものに再構築する必要があるのではなかろうか。その時、アインシュタインの世界平和への願いと平和構想は様々な示唆を与えてくれるにちがいない。広島・長崎で彼がどのような平和への指針を語るか、ぜひとも聞いてみたいものであるが、それは叶わぬ夢である。

言い古されて手垢がついてしまった言葉ではあるが、核廃絶への努力は、被爆国民としての日本人の人類に対する責務であると思う。
中澤先生にメール E-mail:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp