執筆者:宝田 時雄【郷学研修会】

改正とは、改めて正すことである。

天皇は即位の儀で一字一句を丁寧になぞるように表明した。それは先帝が戦後、新憲法とした発布した昭和憲法というべきものであった。

「・・・憲法を護り」とのお言葉は、国民とともに歩む象徴というお立場を、即位に当たって国民とともに確認することでもあった。ここでは、ことさら改憲にくみするものでもなく、巷間いわれる護憲に位置するものでもない。

和合の象徴としての憲法に沿うお立場を、即位にあたって改めて表明されたのである。

帝国憲法当時にはなかったことだが、このところ政党の政策にも憲法に関する記述が多くなった。とくに憲法九条の記述に関する解釈論議が口角泡を吹くように続けられている。

単に政党の対立軸であった憲法論議も、冷戦時において影響のあった海外スポンサーの消滅により、独立自存を模索するための形作りとして改正論議が取り上げられているようだ。

また、私学助成や戦争放棄に関する条項も、一方では占領憲法破棄として自主憲法制定という言葉で表現され、他方、普通の国という意味不明な国家像を、すわ海外派兵、戦闘行為と錯覚した相対政策があり、双方とも耳障りのよい言辞を並べて国民の関心を集めている。

護憲、改憲も員数合わせの都合なのか、それとも流行り時世の要求なのか、ことさら広言する諸侯が増えてきた実情もあるが、政治に信も無く、経済は疲弊している現状では、とうてい理解の淵には届かないようだ。

よく「論語読みの論語知らず」とはあるが、こと憲法についても似たような現象がある。論語は論語の必要な環境にあって発生している。

聖徳太子の十七条の憲法と一対になった冠位十二階から始まった律令制度も、武家社会になると、法度、式目、あるいは現在の民法にかわる、定め書きや、各地方の藩には国家全体の法律というより、掟、習慣の規範を定めた程いい陋規があった。

国家、国民という概念の創成期であった明治には大日本帝国憲法が天皇の名で発布され、日本国の有様が目標題目として顕示されている。 規範を定めた法律条項や民事を定めた民法も作られたが、武家社会からの構造転換にともなう新社会、維新国家としての模様替えとして、あるいは王政復古の威風を知らしめるために作られた革新的憲法であった。

またその内容は武家の覇道的支配とは異なり、スメラギの道が目指す王道実践が表現され、国家統合の普遍的連帯のため、威徳を目標の標(しるべ)として置いている。

まさに王政復古そのものであった。

また、復古というなかには武家社会の権力構造から、王道(皇道)の掲げる国家安寧の姿を具現させ、それを国の姿として遂行する意思が内包されていた。

それは、世襲藩侯による権力構造を、天皇の「威」のもとに転換するシステムであり、国家統制のすべとして制定された冠位十二階と権力者を制御するための憲法を再復したものでものであり、国家の継続性を連綿とした皇統に沿って表したものである。

誰が、何のために利用したのか、あるいは滑稽な説だとの論もあるが、それは、薩長政府といわれ、専軍傾向にあった明治政府においても有効な機能を発揮していることも見逃すことはできない。

たしかに地方の下級武士が下克上宜しく、中央政府の高官や爵位褒章に納まる姿もあったが、これとて聖徳太子が天皇を中心とした調和のための儀礼的制度である冠位制定であるなら、蘇我も薩長も単なる権力負託者の類には変りはないものを整える手法でもあった。

権力者と呼ばれるもののなかには、政治家、知識階級、宗教家があるが、人間の尊厳を謳った聖徳太子の制定施策には、権力者の専横に対する制御、陥りやすい権力者の退廃を先見し、そのことが民の安寧を脅かし、かつ古代から太綱のように継承した国維の変節、衰亡を危惧してのことである。

世襲豪族であった蘇我氏をはじめとする諸侯の権力を、形式的な冠位である儀式序列に位置づけ、合議による規範とともに古代からの継承された綱維を皇威統合の中心に置くことを目指したものであり、それは権力者の縁戚人治による専横を抑えたものである。

これは民法でもなければ、天皇を統帥権の要において親政をおこなう目的ではない。

世襲豪族や取り巻きの知識階級であった神職者や儒者、伝来によって興隆した仏教などが世襲豪族と野合して、在野の情報を混乱させ、天皇の位置を脅かすような力をつけた宗教者に向けられたものであり、それらが人間の尊厳を損なう運動体として本来の姿から増殖転化してしまうことを、人間集団の避けられないこととして先見した制定であり、スメラギの道として古代より護持している大本の継承危機こそが憲法の制定要因であった。

ここで云う神職者とは、天皇が執り行う神事秘儀における「カミ」とは異なるものである。

また、律令や冠位の制定によって官吏職が生まれたが、これも現代と同様に既得権益、権力代理行使者として、豪族、宗教者と同様それを制御するためのものであることは言うまでもない。

すべては人間の尊厳を安らかに保持するためのものである。

それは民がことさら意識するものでもなければ、今どきの人権や財貨による安心と豊かさとは根本的に異なる、自然界の威厳とそれに沿う人間の自由を謳ったものであった。

このことは古代の人々のおおらかさであり、採取、農耕と変化して定着した集落の潤いのある陋規(狭い範囲の掟、習慣)の知恵であり、また棲み分けられた民族の素行は、自然界と分け合った線引きでのなかでの共生であった。

それは、自然界との境際を乗り越えることでの厳しい応えを認めることであり、その報いをみずからが「自得」するといった、たおやかな自律社会の在りようを認知したことでもあった。ここでいう自然界とは、おのずから、みずから、に存する「カミ」そのものであろう。

聖徳太子が考えた共生は、森羅万象であらわされる自然界と、人間の尊厳との調和であり、その継続性を永劫に祈る人々の安寧だった。

制定はそれに対する権力者の在り方への問題意識であり、庇護者として支えた色目人(渡来人)といわれる秦河勝の大陸の源流から俯瞰した倭の国のあるべき姿の希求ではなかったのか。

それは地方諸侯のみならず、異民族が群雄割拠した地域の民の怨嗟や、連帯の希薄な砂民による盲流ともいわれる哀しみや、頑なな教義によって土地、戸籍の管轄権、徴税権を世襲制の強い権力支配階級によって蹂躙され、皇帝の権威を形骸化された国家の硬直な姿も、その鏡であったに違いない。

妙な言い方だか、東の果てにある国家が大陸現象の篩いにかけられた姿の受容でもあっただろう。 それは太綱が権力者の欲望によって消え去ることを恐れたために作られた古代の蓋でもあり、それに気が付いたものの国家のための行う、真のセキュリティーでもある。

他国の栄枯盛衰を推し量り、且つその術を官製マニュアルや一時の憂慮に求めた姑息な自己制御の解き放ちは、自らしか為すことのできない事象の結末を書き物に委ねる安易な計算しか観えてこない。

憲法はそこに記されている象徴天皇の御名御璽によって発布される。しかし、聖徳太子に託した天皇の意思を、現代において仮にも民主を謳い、民主に困惑している為政者にその任は堪えられるのか。

また起草を担う官吏に、国維の意義を涵養する学問カリキュラムが官製学歴に存在したのか。

宗教家に教義を超越して利他の増進に効ある道を発見できるだろうか。

政治家に祈りは存在するのか。

聖徳太子は人智を超えた国維に、自ずから存するカミに畏怖の念と誓いを添えて憲法を作成した。神代文字によって継承されたカミの姿を想念してのち、漢文字によって明文化し、二ヵ年という短期間に草案を立てている。

その時代は鎮まりがあった。念ずる情緒と、深層の国力である民の勤勉、正直で、かつ全体を司るために必須な礼儀が存在した。

乗り遅れまいとする相乗り議論は、鎮まりのない?風を巻き起こしている。

憲法は書き物である。鎮護の礎を語る術(すべ)と法は内省の後、自ずから訪れるだろう。

今はまさに、祈るべき時節である。(平成16年1月10日記)

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