執筆者:中野 有【アメリカン大学客員教授】

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ルーズベルト大統領からレーガン大統領まで、カーター大統領を除く8代の米大統領につかえた冷戦の戦略家として国防副長官や海軍長官を歴任された、ポール・ニッツ氏が97歳でなくなった。ニューヨークタイムズやワシントンポストは、数ページの特別記事で、この冷戦の歴史的証人の功績を讃えた。

ポール・ニッツについては、ジョンズ・ホプキンズ大学の高等国際研究所の創設者の一人であり、対ソ戦略を立案した程度の知識しかなかったが、新聞記事がきっかけで、ポール・ニッツに興味を持った。以外と書店にポール・ニッツの文献がないので、中古本を中心にできる限りの文献を読みあさり、氏の戦略思考を探求してみた。対ソ戦略や共産主義封じ込め戦略を描いたジョージ・ケナンやポール・ニッツの戦略的思考は、冷戦の国際情勢に適応した最強の戦略であった。しかし、21世紀の今日、ポール・ニッツやジョージ・ケナンが練った戦略思考が存在していない。将来の「国際テロ封じ込め政策」を考えるためにも、冷戦の大構想を調べてみる必要がある。

10月23日、ワシントンの大聖堂でポール・ニッツの葬儀が行われた。一度も会ったことのない人物の葬儀に出るのも不思議であるが、私の住む家の大家がニッツ氏の子供と友人であるということと、一般人も入れるということなので出席することにした。そこには、ラムズフェルド長官、ウォルフォビッツ副長官をはじめ、ペンタゴンやフォギーボトム(国務省)の中心人物が参列されていた。

レーガン大統領の国葬が行われたのもワシントンの大聖堂であるが、テレビで観たレーガンの国葬に較べもちろん素朴な式であったが、ニッツが中心となり描かれた構想が、歴代大統領を動かし、アメリカを冷戦の勝利に導いたのみならず、核戦争をものの見事に回避したという点で、ニッツの戦略思考を尊敬する空気が漂っているように感じられた。

■ニッツと日本

ニッツと日本の関係は深い。ハーバードを卒業し、投資銀行に勤めていたニッツは、原爆投下後の広島と長崎を訪れ、米戦略爆撃調査団の副団長として原爆投下の効果を調査した。その時の述懐として、初秋の富士山を上空からみて、日本は世界で最も美しい国であると述べている。

マッカーサーとの会議で、意見の相違により、ニッツはマッカーサーから2度と会うことはないと告げられるのである。しかし、2日後には、マッカーサーから声がかかり、夕食などでうちとけた関係になり、1ヶ月後には占領軍の経済担当官の重職としての誘いを受けるのである。ニッツは、米国の極東戦略の調整なしで日本経済を立て直すことは不可能なので、ワシントンとの協議を重んじるという条件をマッカーサーに出したのである。それに対し、ワシントンから距離を置いていたマッカーサーは、ワシントンどころか大統領の干渉も受ける用意はないとの理由で、再びマッカーサーとニッツの関係が悪くなるのである。

その後、朝鮮戦争が勃発したときにマッカーサーは、中国と北朝鮮の国境のあたりに原爆の使用を考えていたことや、中国への異常な挑発的な攻撃で毛沢東の共産党政権の転覆と蒋介石の国民党の復活を考えていた。これらの危険な選択をしたことを理由に、マッカーサーの解任をトルーマン大統領が決定するのである。日本国憲法の1章すなわち1条から8条まですべて天皇に関する記述であることから、マッカーサーがいかに天皇擁護をしていたかが伝わってくる。ニッツが天皇の役割をどのように考えたか分からないが、マッカーサーとニッツの関係や占領軍の東京とワシントンの関係を読み解くと人物と人物の興味深い事実がみえてくる。

共産主義封じ込め政策を描いた二人

1943年7月、ニューヨーク発ワシントン行きの混雑した電車の食堂車でニッツは、ジョージ・ケナンと偶然出会うのである。この出会いがきっかけで、4年後には国務省政策企画部の初代部長のケナンの下でニッツは、マーシャルプランの実施に深く係わるのである。

フォーリン・アフェアーズ誌に掲載されたジョージ・ケナンの「X論文」はあまりにも有名である。1946年にモスクワから打電した長文電報がアメリカ外交に衝撃を与えたのである。ケナンは国務省の立場上、匿名で「ソ連との協調という甘い期待を抱くのでなく、ソ連の拡張主義を封じ込めていく必要がある」と大衆への啓蒙を行ったのである。この「ソ連の行動の源泉」論文の影響で、アジアにおける共産主義封じ込めという目的で日米の関係が親密になったのである。

ケナンのビジョンをさらに拡大させ、ソ連の核兵器に対抗する米核戦略推進の基礎を築いた「NSC68」を1950年に描いたのはニッツである。核抑止論を信奉するニッツの設計図が、東西の冷戦終焉までのアメリカ外交の知的・戦略的指針となったのである。ニッツの描く外交政策は、マーシャルプランの下で経済支援を強化し、NATOを通じた集団的安全保障を構築することにあった。NSC68では、ソ連の脅威は全世界的だが、最もさしせまった危険は、クレムリンの衛星国による、個別的な攻撃であり、アメリカは核兵器と通常兵器の両方で防衛費支出を大幅に増大すべきであると結論づけている。

ケネディーとニッツ

ケネディー大統領からの電話でニッツは、大統領補佐官、国防副長官、国務省次官のいずれかのポストを30秒で選択せよと突然告げられるのである。ニッツは、30秒間考え、国防副長官のポストに決めたのである。ケネディーの「平和戦略12項目」の上位三つは、核兵器、通常兵器、マーシャルプランを基本とする技術協力であることからもニッツの戦略思考が、ケネディーと波長があったことは確かである。キューバのミサイル危機に瀕し、ケネディーの側近としてのマクマラン国防長官とニッツ国防副長官の揺るぎなき戦略が活かされたのである。

冷戦の勝利の秘訣

10年前にニッツに直接、冷戦の勝利の秘訣について問いかけた経済評論家の田中直毅氏によれば、「冷戦が西側の勝利に帰したのはソ連に対し徹底して厳しくあたり、その妥協のない場を保持し続けたからであり、文化交流等の手段を通じて、軍事の実質・実態は変わらなく、いざという場合に使うことのできる究極的な兵器というものによって相手の変質を待つ以外になかった」とのニッツの見識が記録されている。

国際テロ封じ込め政策

冷戦中は終始一貫して妥協のない核抑止論を実践したニッツであったが、アメリカの先制攻撃で始まったイラク戦争に反対していた。理由は定かでないが、ネオコンの創始者と言われるニッツは、現在のネオコンの戦略と温度差があったようである。冷戦中は、イデオロギーの戦いの中で共産主義封じ込め政策が機能したが、冷戦後の危険因子は、国際テロやならずもの国家、そしてこれらのネットワークを通じた核の拡散である。そこで、大国や衛星国への封じ込め政策でなく、「国際テロ封じ込め政策」が必要となる。国際テロの原因は、宗教観や価値観の違い、貧富の格差を含むことから、軍事の抑止だけでは解決不可能な幅広い要素が求められる。

ケナンは百歳の今も健在である。60年以上前に電車の食堂車の中で、ケナンとニッツは偶然出会った。その二人が主役となり平和の設計図が描かれたのである。一握りの人物の構想により大統領が動き、動かされ外交や安全保障の舞台が回転したのである。21世紀の課題、国際テロ封じ込め政策の戦略思考も、きっと一握りの人物から生み出されるのであろう。敵は大国でなく、国際テロであるとすると、国やイデオロギーの対立でなく、協調や調和の要素が必要である。平和戦略に向けた構想が国連やG8の場で、協議され議論が沸騰することが望まれる。ニッツ氏は、国際テロ封じ込め戦略を描くにあたり、きっと冷戦時のNATOを中心とした封じ込め政策でなく、経済・文化交流という分野も強調するハードパワーとソフトパワーの調和という戦略を思考されると信じたい。

参考文献

Nitze,PaulH.FromHiroshimatoGlasnost: AttheCenterofDecision.

GroveWeidenfeld1989

Nitze,PaulH.TensionBetweenOpposites.MacmillanPublishingCompany1993

Talbott,Strobe.TheMasteroftheGame:PaulNitzeandtheNuclearpeace.

VintageBooks1989

Mayers,David.GeorgeKennan:andtheDilemmasofUSForeignPolicy.Oxford

UniversityPress1988

Kennan,GeorgeF.Memoirs(1925-1950).BantamBooks1967

ForeignAffairs,JapaneseEdition:AnthologyVol.4冷戦と「X」論文

2003.12

タッド・シュルツ、吉田利子訳、1945年以降・ポール・ニッツのNSC68、文芸春秋社、1991年

田中直毅コーナー 今週のひとりごと、アメリカ外交の変化:ポール・ニッツ氏の訃報に接し、10月22日
中野さんにメールは E-mail:tomokontomoko@msn.com