北アルプスの山々に囲まれた信州・安曇野。水量の豊富な川の水力を使って、早くから発電が行われていた。そのうちの一つに、今年100歳を迎えた発電所がある。
 秋晴れの9月11日、中部電力のOBら約100人がその宮城第一発電所(長野県穂高町)に集まって100周年を盛大に祝った。発電機と水車は、当初の物がそのまま使われており、現役では日本で最古だ。この発電所の歴史を研究してきた私も、電力が信州の近代化に大きく貢献したことを話した。参加した人は口々に「次は110歳を祝おう」と再会を誓った。
 独社製、胴体に製造年
 発電所は北アルプスの燕岳から流れ出る中房川沿いにある。中心である水車は独フォイト社製、発電機は独シーメンス社製。地元の花こう岩の上に頑丈に据えられ、水車の胴体には製造年を示す「1903」の文字が光る。設置から100年を経た今も「ゴーツ」といううなり音を上げ、黙々と電気を送り出している。水車に当てる川の水を送る導水路なども、所々に補修がされているが、当時の石造りのままだ。発電所は今では無人になり、中部電力の大町電力センターが保守している。
 私は長野県の高校教諭をしながら、産業技術ン人間のかかわりについて研究してきた。父が撚機械の工場を経営していたので、早くから機械や電力に興味を抱いた。夏休みなどを使い、当時長野県内にあった150余りの発電所に足を運んだ。
 1980年、製糸業など信州の伝統産業と電力をテーマに論文を書こうとした時、宮城第一発電所を見るため、穂高町へ現地調査に訪れた。そのとき、水車の銘板に刻まれた「1903」の文字に目を奪われた。この時点で77歳。「もしかすると現役では日本最古では」と胸が高鳴った。
 事実を確認しようと、1910年発行の「電気事業統計」を入手して調べた。宮城第一より前にできた水力発電所は全国に15ヵ所あった。およそ1年を費やして、各電力会社に調査依頼の手紙を出して確認したところ、宮城より前にできか発電所ではいずれも、水車と発電機はすでに交換されていた。

中部電力宮城第一発電所


 当時は破格の出力規模
 建設当時の状況も調べた。発電所は鉱山開発などを手がけていた横澤本衛が設立した安曇電気によって建てられ、当時の名称は宮城発電所たった。出力は250キロワットで、長野県最初の長野電灯茂菅発電所の60キロワットに比べると破格の規模だった。1万1000ボルトの高圧送電を行ったのも、長野で初めてだった。野心的な事業家が、広域に電力を供給しようとしていた意欲が伝わってくる。当時は社名には「電灯」とつく会社が多く、「電気」の名前からは事業用の電力供給も意識していたことがうかがえる。
 戦後に地元の小さな電力会社を再編して発足した中部電力には、明治時代の様子を伝える資料は十分に残っていなかった。このため建設当時の資料を探しに子孫の立ち会いのもとで横澤の生家も訪れたが、発電関係物は見つからなかった。
 「北安曇郡誌」「信州人物誌」などの資料では横澤の誕生日も誤って記載されているほどで、電力の歴史を探るうえで、未だ残された課題は多い。
 発電所は信州の近代化を陰で支えた。当時は照明以外の電力需要は少なく、安曇電気の経営は厳しかった。電力の販売先を求めた結果、島内村(現松本市)にできた電気炉の工場へ日本で初めて鉄鋼生産のエネルギー源を供給することになった。
 邦人青年技師売り込み
 また宮城発電所に発電機と水車を売り込んだのは、独シーメンスの東京支社に勤務していた青年技師の野口遵だった。彼はその後、九州で日本窒素肥料(現チッソ)を創業、朝鮮半にも渡り、鴨緑江の発電事業を手がけた。商談の成功が自信になり、発電の将来性に確信を持ったのだろう。
 今回、100周年を迎えるにあたって、中部電力の方がフォイト社に問い合わせたところ、「1433」の製造番号が記録された100年前の水車の仕様むが出てきた。外国では100年前の機械の資料でも、きちんと保管されている。日本では文化財として保存されるのは神社、仏閣などが中心で、産業遺産への関心はまだ余り高くない。
 産業の近代化を支え、見守り続けてきた「生き証人」である発電所にももっと光が当たってほしい。(きたの・すすむ=技術史研究家)

中部電力宮城第一水力発電所(旧安曇電気)
所在地:長野県南安曇郡穂高町
交通:JR大糸線有明駅より約8km
発電所諸元
明治3 7 (1904)年9月14日運用開始
     水路式水力発電
     最大出力:4 0 0 kW
     発電機:2基
     取水:中房川
     放流:中房川
現役では日本最古の発電機が稼動しています。(1号機:独ジーメンス社19022年製、500V、250kvA)