言語感覚を疑う小泉と自民党の「この国」
執筆者:成田 好三【萬版報通信員】
7月の参院選は、昨年11月の衆院選と同じ結果に終わった。さんざん騒いだあげくに何も変らなかったからである。
先の衆院選でも今回の参院選でも、自民党は改選議席を確保出来なかったが、連立相手の公明党の協力で与党としては安定多数(衆院選では絶対安定多数)の議席を得た。民主党はともに大幅に躍進したが、退潮著しい社民党、共産党の議席を奪った結果だった。
メディアは2つの国政選挙の結果を、二大政党化が進んだなどと評しているが、与野党の議席割合、政権の枠組みから見て、何の変化も起こらなかった。
メディアは今回の参院選を「政権選択を問わない選挙」としていたが、これは不思議な言い方である。政権選択を問わない国政選挙にはどんな意味があるのか。その選挙で選ばれた議員、その議員で構成される院、つまり参議院にどんな意味があるのか。
政権選択を問わない選挙という言い方は、参院無用論(廃止論)に、論理的には直結するはずだが、メディアはそのことを理解した上でこの言葉を使っているのだろうか。
落語でいう「枕」はこの辺でおしまいにして、本筋に入りたい。本筋とは、政治家、なかでも総理大臣や政権政党の言語感覚についての疑問である。
参院選公示期間中、新聞やTVに頻繁に掲載され、放送された自民党の選挙広告に強い違和感を覚えた。広告内容に文句があるのではない。小泉首相の写真や映像に合わせて登場するキャッチコピー「この国を想い、この国を創る。」に、もっと正確に言うと、「この国」という言葉に、強い違和感を覚えた。政治の最高責任者である総理大臣と政権政党が、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現したことに、である。
小泉首相と政権政党である自民党が、膨大な費用をかけた参院選の選挙広告のキャッチコピーに選択したのだから、このキャッチコピーは相当優秀なコピーライターが考え出し、大手広告代理店がよくよく吟味したした上で、最終的に選択された言葉だろう。小泉首相と自民党は、「この国」という言葉に有権者へのメッセージを込めたはずである。
「この国」という言葉は故司馬遼太郎氏が多用した表現である。司馬氏が文藝春秋に長年連載した巻頭エッセーのタイトルは「この国のかたち」だった。司馬氏はこのエッセーの中で、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現した。
司馬氏が日本を「この国」と表現したことには幾つかの理由があるだろう。そのひとつには、出来るだけ客観的立場でものを見る上で、「わが国」では障りがあると考えたからではないだろうか。明治から大正、昭和へと続く日本のダイナミックな流れを、出来る限り「ニュートラル」に考え、分析するために、「この国」という表現を多用したのではないだろうか。
社会批評、歴史批判をする上では、当然の選択だった。客観的にものを見る、「ニュートラル」の立場に立つといっても、完全な「客観」「ニュートラル」の立場は存在しない。そのこと知っているからこそ、可能な限りの客観性、ニュートラル性を担保するために、司馬氏は「この国」という表現を多用したのだろう。その後、「この国」は社会批評などの分野で多くの人が使う言葉になった。
そして「この国」は政治家でさえ好んで使う言葉になった。政権政党が、政党にとって最も重要なイベントである選挙のキャッチコピーにまで意図的に使う言葉になった。しかし、社会批評、歴史批判と政治は同一のレベルのものだろうか。社会批評は出来るだけの客観性を前提にする。誰かのため、特定の目的のための批評など、読者は受け入れるはずもないからである。
政治は、批評とは逆の立場にある。政治は社会批評での「客観」や「ニュートラル」を前提にしたものではない。自らの立場(政策・理念)を明確に説明した上で選挙や議会で戦うのが政治であり、政治家である。
日本政治の最高責任者である総理大臣と政権政党が、日本を「わが国」ではなく「この国」と表現する。しかも、その表現に何の違和感も覚えないばかりか、それが得票につながると考えている。だからこそ、自民党は参院選のキャッチコピーに「この国」という言葉を使ったのだろう。
民主党も参院選の選挙広告で、キャッチコピーではないが、「この国」と表現していた。総理大臣も政権政党も、そして最大野党も、日本を「この国」と表現している。政治権力者までもが、社会批評家のようなもの言いをする。そんな社会では、日本を「わが国」と表現する日本人は誰一人としていなくなってしまうのではないだろうか。(2004年7月15日記)
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