耕して天に至る―人をひきつける段々畑
執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部2年】
「耕して天に至る。以って貧なるを知るべし。」 中国の李鴻章が段々畑(もしくは棚田)を形容してこう語ったと伝えられている。日本の段々畑というよりも中国のものを形容していったのだろうと考えられるが、段々畑を形容する言葉として最適な表現だと思う。
日本にも段々畑は点在している。かつては至るところで見られた段々畑だが、現在ではほとんど残っていない。棚田は全国的なネットワークもあり保存活動が盛んである。しかし、段々畑にはこういった組織はまだ成立していない。
四国の西南にこの段々畑が一区画だけ集中的に残っている。遊子・水荷浦(ゆす・みずがうら)である。今回はこの段々畑の形成過程と今後について紹介したいと思う。
江戸時代、遊子は宇和島・伊達藩の領土であった。宇和島は鬼ヶ城という山を背後に控え、眼前には宇和海が広がっている。遊子はその半島にあり、土地は狭く漁業で成り立つ地区である。
この遊子の地に段々畑が開かれたのは元禄初期の頃だと推定されている。土地を求めて浦が開発されたというよりも、漁場が開拓されたためだと思われる。当時、宇和海は鰯漁が盛んであり、保存用に塩干しにする他は干鰯として大阪・兵庫方面に出荷されていた。これは宇和島藩にとって貴重な外貨収入になるため、漁業が奨励されていたのである。藩は漁業を奨励するため、漁民たちの自給分として浦にある山に段々畑を開発することを許可していった。こうして、段々畑が形成されるに至ったのである。
幕末から明治にかけて、漁業が発展期を迎え遊子の人口増加があった。この時期に段々畑の造成が為されたようである。人口増加以外の理由として、耐乾性の甘藷が耕作作物として導入されたことも段畑発展の理由であると思われる。
第二次世界大戦後にも大戦後の食料不足のために段々畑は造成されていったようである。この時期の写真が残っているが、湾を囲む山は全て開かれ段々畑になっている。こうして段々畑が開かれていったのだが、昭和20年代にはもう広がることはなくなり、段々畑の消滅という過程を辿っている。
山を開きすぎた罪だったのか、昭和35年をピークとしてネズミが異常繁殖した。人口6000人の宇和海村(遊子を含む地区)に推定60万匹のネズミが生息していたという記録が残っている。ネズミは段々畑の芋や麦を食い荒らし、家では幼児の指や耳をかじることもあったそうだ。この異常事態に県下からネコが集められて導入されたり、ネズミを1匹10円で買い取るなどの政策が行われた。
こうしたネズミの被害も若者が都会へ出稼ぎに行き、老人が段々畑を放棄していった昭和40年代にようやく終わった。何事も行き過ぎは良くないという自然からのメッセージだろう。
段々畑での耕作は困難を極める。急傾斜である上に、1段の耕作幅は狭いところでは40cmほどしかないところもある。こういう狭い畑であるから、耕作中に畑から転がり落ちて怪我をしたという話しも聞くし、重い肥溜めや収穫物を荷うので肩に荷瘤ができるという話しも聞く。今でこそ、モノレールが付き幾らかの道が付いたとはいえ畑の狭さに変わりは無く段々畑での労働は大変である。
「耕して天に至る」段々畑。「新・宇和島24景」「日本農村100景」「四国水辺88ヶ所」「文化庁指定」に選定され、マスコミ露出度も高まって来た。そのためなのか、この地を訪れる人は多い。段々畑を見て、圧倒されて帰っていく。その思いは耕作経験者とは違っている。地元の耕作経験者は辛い思い出からか「負の遺産」と捉えている人が多い。耕作経験者ではない私は、観光客の感情に近いのだと思う。先人達の流した汗の染みる石に体を寄せ、潮風に吹かれる。嫌なことがあればいつもこうして段々畑に上っていた。無くなるのはとても悲しい。それは、段々畑の消滅にムラの消滅を重ねてしまうからかもしれない。
地元住民の呼びかけで2000年に「段畑を守ろう会」が結成されている。漁業に元気のない今、この存続・運営も今一つのようだ。段々畑が後世に残していくべき遺産として今後も残っていくことを望んでいる。「負の遺産」としてではなく、今を生きる私たちに「物言わぬ師」として残って欲しいのである。
藤田さんにメールはE-mail:yusukko@cf7.so-net.ne.jp
『遊子っ子広場』 http://www005.upp.so-net.ne.jp/yusukko/