日本人が知らない石垣島に残る唐人墓
執筆者:色平 哲郎【長野県南相木村診療所長】
日本列島西南端の沖縄県石垣島、この島に所在する「唐人墓」について、沖縄以外に住む日本人はほとんど何も知らない。
唐人墓には、およそ次のような碑文が刻まれている。
唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)
港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、
辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの
暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。
石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、
島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。
中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、
逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、
密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう
配慮した。そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、
翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、
生存者172人を福州に送還した。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の
機運が盛り上がった・・・
16世紀以来、「苦力(クーリー)」と呼ばれる中国人労働者は、労働奴隷として世界各地に送り出されていた。19世紀半ば、アメリカ合衆国西海岸でゴールドラッシュが起こり、北米大陸横断鉄道の建設工事にも伴った労働力不足のため注目されたのがこの中国人労働者であった。
アフリカ大陸からの奴隷は大西洋を横断しての移送時に死亡例が多く、歩留まりが悪いばかりか、東海岸からゴールドラッシュに湧くカリフォルニアに移送するのが容易ではなかったからだという。
反乱時、逃げのびた米国船の船員が中国沿海部にいた英国海軍に通報し、追及が始まった。しかし当時、(薩摩藩の支配下にあった)琉球王国の八重山政庁や島民は中国人労働者をかくまった。米英は島に砲撃を加え、武装兵を上陸させて捜索を行い、中国人たちは銃撃、逮捕、自殺などでどんどん減っていった。
島民は彼らに食糧などを援助し、死者は丁重に葬られた。
島民は捜索にあたる米軍と英軍にも食糧と水を提供し、なだめている。
関係諸国の協議の結果、生存者172名を琉球の船で中国(清朝)に送り返すことで合意、これを契機に、アヘン戦争敗北後の中国で、「同胞を売るな」との苦力貿易反対の世論が盛り上がった。
当時、埋葬された墓は島内に点在していたが、石垣市がこれらを合祀慰霊するため、台湾政府、在琉華僑の支援もあり、唐人墓を1971年に建てることができた。しかし当時琉球列島は米国の占領下にあったため、墓のいきさつをきちんと記すことはできなかったという。
1853年の黒船来航に先立だつばかりか、アメリカ合衆国での奴隷解放宣言にも先立つ、特筆すべき大事件である。
中国人労働者を殺戮するために、石垣島に来航した米国軍艦サラトガ号は、2年後に他の3隻の軍艦と共に、江戸城に近い浦賀の沖合いに来航した。
日本(本土)の歴史教育で、この史実は全く伝えられてこなかった。ペリー提督の来航に慌てふためいた江戸城の官僚たちよりも、石垣島民らによる事件処理の方がはるかに優れていたからであろうか。この苦力反乱事件の顛末は、中国本国でも、海外の華人社会でも中学校や高等学校の重要な歴史教材である。
かつて石垣の民衆が、反乱し脱出上陸した苦力たちから学んで交流したように、多くの日本人が真の「アジア人の友」として交流することが可能になるのは、いつの日のことであろうか。