執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】

長崎市で12歳の男の子が4歳の幼稚園児を誘拐してビルの屋上から突き落とすというショッキングな事件が起こった。今から、私がここで問題にするのは事件そのものでなく、事件に対する政治家やメディアなどの反応である。

 「加害者の人権を優先し、、、、、」

政治家からの反応といえば、青少年育成推進本部の副本部長をつとめる鴻池防災担当相の発言で、多くの人々に知られていると思うが、今一度引用する。

「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」

インターネットで日本の新聞を読むと、かなりの多数の人々がこの発言について「的を射ているとは言い難いが、国民の気持ちを代弁している」と感じているそうである。でも、ここでいわれる「国民の気持ち」とは何なのだろうか。私はその点がとても気にかかる。

この発言をした政治家は、「加害者の人権を優先し、被害者の人権を無視する風潮」に反対するのが自分の本意であったと説明する。ということは、「嘆き悲しむ被害者の家族」がテレビに映されて、メディアの晒し者にされることを人権侵害と見なしていることになる。この政治家が被害者遺族の人権尊重を訴えている点に、多くの人々が共感を覚えたのだろうか。そんな気がしないでもないが、これもはっきりしない。

でも発言者の政治家は、人権侵害を望ましくない状態といいながら、奇妙なことに、加害者側関係者をメディアの晒し者にすること、すなわち人権無視を要求する。この結果、悪い状態が一つだったのが、二つに増える。この不都合は気にならないのは、この政治家が加害者を厳重に処罰したいからである。ところが相手が12歳の少年であるために不可能であり、彼は「加害者の親も、担任も、校長も(テレビに)顔を見せて謝ったり反省したりする」ことを要求する。この場面を見ていると、「日本中の親が自覚し」少年犯罪の防止に役立つと、彼は論拠づける。

日本で不祥事が発生すると、関係者全員が平身低頭して謝罪する。このような場面を、欧米のメディアは好んで報道するが、それはヨーロッパに見られない光景だからである。

報道とプライバシーの保護

この「打ち首発言」の政治家の見解を、どう考えたらよいのだろうか。それについて問題にする前に、この政治家が憤慨した「被害者の人権無視」について考えてみる。これは、報道の自由とプライバシーの保護の問題で、日本でも昔から議論されている。この二つは、一方が知ろうとし、他方が知られたくないとする以上、相反する権利で、両者は真っ向から対立する。どこで線を引くかはいつも厄介な問題で、ヨーロッパの中でも国によってかなり異なる。

ドイツでは、刑事事件の被害者も加害者も氏名はイニシャルで済まされ顔写真は公開されない。(この原則は災害や事故の犠牲者にも適用される。)例外は、本人が許可したとか、捜査上の必要性とかいったケースに限られている。

なぜそうなっているかというと、名前や顔を知らなくても事件を理解することができると思っているからである。また公開された場合の問題点、例えば加害者の服役後の社会復帰を困難にしないことなどもその公表する必要がない考える重要な理由である。

2年前、ミュンヘンの新聞社が殺人事件被害者の家族を葬儀中に撮影して掲載した。その写真の中の遺族が特定できるために問題になった。加害者の関係者だけでなく、悪いことをしたわけでない被害者の関係者も自分の名前や顔写真が公表されて、見も知らない他人の好奇心の眼にさらされることを避けるの普通である。

昨年、旧東独のエルフルトで少年が16人を銃で殺し、その後自殺するという衝撃的事件が起きた。学校の関係者や近所の人以外、被害者の氏名を誰も知らない。当時、エルフルト市当局は葬儀のあった市営墓地を立ち入り禁止にしたが、これも親しかった人々だけが犠牲者と最後のお別れをすることを可能にするためであった。

この点で日本のメディアはドイツとは対照的で、(加害者が未成年者でない限り)事件関係者の氏名や顔写真を出す。また保護されるべきプラバシーの領域がきわめて限定されているようにみえてしかたがない。日本は、ドイツの報道に慣れている人々から見ると、プラバシーが十分に保護されていないような印象をもつ。

このような日独の報道の相違について、私は今まで日本のメディア関係者と何度も話した。事件関係者の氏名を出すことに関して、ある人は、日本のメディアには「人命尊重」の長い伝統があり、そのためにドイツのようにイニシャルで済ますことがこの伝統に反すると説明してくれた。本当にそうだとすると、日本のメディアはお焼香をあげるような気持ちから実名や顔写真を公表していることになる。

共同体幻想

30年以上前、マクルーハンのメディア論が流行した。彼は、テレビの発達でニュースを人々が同時に知るこようになり、その結果、現代社会が文字文化以前の「部族社会」に逆戻りして、「地球村」が出現すると予言した。今やマクルーハンも忘れられて、「地球村」のほうもほど遠い。でも前衛国家・日本だけは「日本村」に逆戻りしたような気がしてしかたがない。もちろん現実の日本は「村」でなく、一億以上の人々が暮らす近代国家で経済大国である。ということは、この「日本村」は共同体幻想である。

どこの先進国社会にも村落共同体的な要素が伝統として残っている。またテレビも発達・普及し、世論形成に大きな役割を演じている。ところが日本の場合は事情が少し異なるように思われる。多くの国ではテレビの発達とともに活字メディアが特化し、より活字メディアらしくなったところがある。反対に日本では活字メディアがテレビに接近し映像的になっていくのではないのだろうか。

例えば、30年といった長い単位で見た場合、個々の新聞記事が短くなり、その結果、見出しに近づいていくことも、そのような兆候ではないのか。また雑誌記事のタイトルが劇画のセリフを連想させることも、このような活字メディアの映像化の一例ではないのか。これらは、テレビを中心とする映像メディアによって活字メディアが影響され、質的な変化をこうむっていることである。こうして、だんだん「日本村」というべき共同体幻想ができあがっていくのではないのだろうか。

このような「日本村」の存在を仮定しないと多くの現象が説明できないのではないのか。例えば、「事件の加害者の親や担任や校長をテレビで謝罪させたり、反省させたりする」日本の政治家の発想も「日本村」の存在を示す。というのは、これは、日本の昔の村で不祥事を起こした家族が「皆様にご迷惑をかけました」と村人全員に謝るのに似ているからである。テレビの前に坐っている人々がかつての村人の取って代わっただけではないのか。

日本のメディアが事件関係者の実名を公表することは、「人命の尊重」のためでなく、本当は視聴者・読者に自分の村の中で起こったことのように身近な事件として報道したいからではないのか。とすると、メディアはこうして「日本村」という共同体幻想の出現に知らないうちに貢献しただけでなく、また担い手になっていることになる。

「日本村」の危険性

なぜ被害者などの事件関係者が報道されることをプライバシー侵害と感じないのだろうか。

多くの国で昔は個人の死も共同体全体の出来事と見なされた。日本でもそうで、私たちには、葬儀に現われる故人の知人・友人の数が多ければ多いほど盛大だと思う傾向が残っている。メディア関係者もそのような人々にまじって、遺族がプライバシーの侵害と感じられない状態で取材したり撮影したりするではないのだろうか。とすると、メディアがかつての村社会の習慣を利用していることになる。昔からの習慣として通常伝統と呼ばれているものが、こうして意識されないままに「日本村」という共同体幻想の舞台道具に変えられてしまったことになる。

このような「日本村」は20年、30年といったテレビの発達と普及によってだんだん定着したものである。少し前、ミュンヘンで会った学生時代の友人が私に、昨秋、北朝鮮・拉致被害者が「一時帰国」したとき、その一人の「曽我ひとみさんが隣に住んでいるような気持ちになった」と語った。これも、遠くの事件を近所に起こったように報道する「日本村」的レアリズムの成果を物語る。

誤解のないようにいうと、事件を身近に感じて怒ったり同情したりすることにも、また事件を理解してもらうために詳細に報道することにも、私が反対しているのではない。でも身近に感じられることばかりが重要になるのには、困った点もある。というのは、これは、事件が身近に感じられないと重要にならないことを意味する。ということは、「日本村」での身近な出来事とならない限り、多くの人が関心をもたないことになる。本当は、この無関心ではなかったのか、拉致被害者家族が長年に渡って直面してきたのは、、、

海をへだてた北朝鮮を自分の村に住む乱暴・不法者のように錯覚して「村八分」にしたつもりになっても、国際社会は「日本村」ではない。ちなみに、私は、エビアン・サミットや少し前の日英首脳会談で拉致事件が問題にされたことを日本の新聞を読んではじめて知った。

日本は村でなく、大部分の国民が都市住人である。また現実の日本は、複雑な経済機構と法律制度をもってりっぱに機能する近代国家である。このような自国の客観的姿を見失わせる奇妙な「日本村」の幻想には、問題解決に必要な議論をゆがめる危険があるように思えてしかたがない。この点がもっと意識されてもよいのではないのだろうか。

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