台湾地名ものがたり 2003年 中華週報
どの町にも村にもそれぞれの歴史があり、各地の地名はその歴史の中から生まれている。旅行のとき、風光や料理を楽しむだけでなく、その地名の由来も知っておれば、旅行の意 義も倍増するのではないか。その思いから、このコーナーでは、分かる範囲において出来 るだけ多くの土地を取り上げ、その地名の由来を追ってみたい。
「台湾」の呼び名はいつから
まず「台湾」そのものの地名だが、この地がかつて大航海時代にポルトガル人が船上からながめて、思わず「イラー・フォルモサ」(なんと美しい)と叫んだことから、しばらく「フォルモサ」と呼ばれていたとは、観光案内書でもよく見かける。だが、これが本当に一般的だったのか、またどの程度浸透していたかは不明である。それよりも、実際に地名として使われていたのだろうか? 疑問が残る。
台湾が文献に登場する最古のものは、日本でも「漢の倭の奴の国王」で知られている『後漢書』で、「夷洲」という名で出てくる。これには異論もあるが、同書に「民、時には会稽に至る」とあり、会稽とは現在の寧波であり、夷洲イコール現在の台湾とするのが、一般的な学説である。次に出てくるのは『隋書』で、そこでは「流求国」となっている。それが『元史・外国列伝』では「瑠求」に変わり、「潭、泉、福、興(いずれも福建沿岸)の四州」より至ると場所まで記されている。
その後台湾全体を表す地名はなく、中世に至ってから難敵(クエラン、今の基隆)、打鼓もしくは打狗(タークー。今の高雄)、鹿耳門(今の台南市安平)などの地域名が出てくる。ジャンク船や日本の朱印船が航海の途中に立ち寄りはじめたのだ。日本では台湾先住民を高砂族といっていた時期があるが、その語源は「打狗」である。「台湾」がなかなか出てこないが、それは高砂の語源と合わせて次回に。 台北週報 2103号 2003.7.10
今日の台湾はいつごろから「タイワン」と呼ばれるようになったのか。また、なぜ「タイワン」なのか。ものの本には、開発が最初に始まった頃のどこかの湾が台地状になっていたので、「台湾」と呼ばれるようになったなどという説が紹介されているが、これはあまりにも単純すぎる。
台湾の開発は膨湖島への漢人入植がきっかけとなり、そこから至近距離にある南部、特に現在の台南あたりから始まった。詳しい年代は不明だが、漢人がそこに入植しはじめたころ、台南一円に居住していた先住民をシラヤ族といい、そのシラヤ族の言葉で、外来者のことをタイアン(Taian)、あるいはターヤンぐTayan)と言った。それが漢人移住民の耳と口を通しタイオワン(Taiuan)と誂った。漢人移住民たちはそれを地名と早合点し、自分たちの文字である漢字を当てはめた。
明代の福建人で周嬰なる人物が著した『束蕃記』に「台員」という漢字が使用されている。これが文献で見る最初の当て字だが、周嬰は宣徳・正徳年間(1426-1521)の人で、漢人移住民がシラヤ族と接触を持ち始めたのはこの頃のことと思われる。
その他の文献では「大湾」の文字を当てているのもある。では「台湾」はいつ頃からか。清朝が台湾統治の首府として康煕22年(1683)に現在の台南に「台湾府」を設置したのがその正式呼称の始まりである。また、康煕23年に諸羅県(現在の嘉義一帯)の知県(知事)になった季麟光が著した『蓉州文稿』の中に「万暦年間(1573-1620)、海寇(海賊)顔思斉この地に入り、初めて台湾と称す」との一文がある。「台湾」の文字を初めて使ったのは、なんと海賊だったのだ。ともあれ清朝は、慣用されだした「台湾」の呼称を公認したのである。 台北週報 2105号 2003.7.24
「台南」の地名は新しい
台南といえば、日本でなら京都か奈良に相当し、古い歴史の町として観光客も多い。台湾本島の開発はここから始まったのだから、当然と言えようか。だが「台南」という地名は意外に新しい。
唐の中葉にはすでに大陸から移住民が膨湖島に入っていたことは文献からも確認されており、そこヘオランダ人が入ったのは十七世紀になってからであった。ヨーロッパの大航海時代のことで、ジャワ島に東インド会社を設立(一六〇二年)したオランダは、さらに勢力を伸ばそうと艦隊をマカオに向けた。ところがそこはすでにポルトガル人が要塞を築いており、オランダ艦隊は海上をさまよった。このとき、同乗していた漢人通訳で、膨湖島の存在を教える者がいた。オランダ人は喜び、さっそく針路を膨湖島に向けた。上陸してみると、一応開発もされており、けっこう住みよい。ここを拠点にと軍営や住居を築きはじめた。
驚いたのは明朝である。大陸沿岸住民が膨湖島に拠ったオランダ人と交易することを禁じるとともに、大軍を派遣して撤退を要請した。オランダは戦いを避け、交渉に応じた。このとき結ばれた協定が、オランダ人は膨湖島から撤退する代わりに、台湾を占拠しても明朝は異議を唱えず、大陸沿岸との交易も認めるというものであった。このことから、明朝の台湾に対する認識がどの程度のものであったか伺い知れる。
この時オランダ人が入植したのが鹿耳門(現在の曽文渓)で、一六二四年十月のことである。やがてここから台南市街が形成されるが、先住民は当時この地を「セッカム」と呼称し、漢人移住民は「赤嵌」の漢字を当てていた。だからオランダ人が構築したプロピデンジヤ城も「赤嵌楼」と呼んでいた。「台南」の地名が出てくるのは、まだ先のことである。台北週報 2107号 2003.8.7
台北の地名は台南より古い
歴史の街とはいえ「台南」という地名が生まれたのは、1887年とかなり新しいことは前回述べた。では「台北」はどうか。実は「台南」よりも古いのだ。
日本との摩擦となった牡丹社事件が発生したのが1871年(明治4年)から72年にかけてだが、これによって清朝は台湾の行政に本腰を入れることになった。そこで1875年に当時台南にあった「台湾府」と同格の衛門(役所)を台北盆地に開設し、これを「台北府」と称した。「台北」という固有名詞が登場したのはこの時からである。さらに現在北門や小南門が残る台北城が落成したのが1882年で、これより台北は実質的な台湾の行政と経済の中心地へと発展していく。日清戦争発生の12年前のことである。
その前の台北はどうであったか。台北府が置かれるくらいであるから。開発はすでに進んでいた。記録によれば正式な認可を得て漢人の開拓者第一号が台北盆地に入ったのは1709年で、まず先住民との接触から始まった。
当時、蕃社は今日の龍山区で淡水河に沿った環河南街二段に、総統府の裏手から河に向かう貴陽街二段が接続するあたりにあった。その蕃社の種族をケタガラン族といった。これら先住民はやがて漢人開拓民に奥地へと追いやられるのだが、今日総統府前の大通りにその名が復活し、ケタガラン通りとしているのは、台湾回帰というよりも、罪滅ぼしの意味も多少はあろうか。
開発は今日の万華から始まったのだが、そこは二つの河が合流し淡水河となる地点であり、ケタガラン族の言葉で、「丸木舟」あるいは「丸木舟の集散地」をバンカといい、漢人がそれに「艦鱒」の漢字を当てたのが地名の由来で、「万華」と改名されたのは日本時代に入ってからである。 台北週報 2113号 2003.9.25
高砂と高雄の語源は親戚
戦前、台湾先住民を「高砂族」と総称していたが、この名称の由来は定かでない。室町から江戸初期にかけ、日本の朱印船が台湾との交易のためよく停泊していた港(といっても港湾の施設はまだない)の近くに打鼓山(タオカオスア)という小高い丘があった。これが誂
ったとする説が有力だ。
では「打鼓山」の語源は何か。大陸から漢人が入植し始めたころ、当時南部に勢力を張っていた先住民が、一帯に繁茂していた竹林をかれらの言語で「タアカオ」と称していた。これを聞いた漢人が「打鼓」の漢字をあて、丘の名称が「打鼓山」となった。そこへ日本の朱印船が入り、「タアカオスア」と聞いて「高砂」の字をあて、これにより朱印船のあいだで「高砂」といえば、台湾そのものを指す地名として使われた。その地の先住民がすなわち「高砂族」である。この間、秀吉が台湾に交易を求める親書を送っているが、渡すべき相手がおらず、ウヤムヤに終わった。このとき台湾を「高山国」と表記したが、「タカサンコク」と発音していたのかもしれない。
話を元に戻す。この「打鼓」はいつしか「打狗」に変化し(発音がほぼ同じ)、そして日本時代に入った。ところが語源はともかく漢字だけを見れば、「狗」は犬のことであり、「犬を叩く」という意味になってしまう。そこで大正9年の市区改正のおり、日本語読みでも発音の似通った「高雄」の字があてられた。
また、かつての「打鼓山」は現在「寿山」と呼ばれているが、これは以前「春夏秋冬」の欄で紹介した通り、大正12年4月に時の皇太子(後の昭和天皇)が台湾にご旅行されこの山にお登りになったのを記念して付けられた名であり、当時はここに高雄神社があり、現在は港が見える市民憩いの公園となっている。 台北週報 2116号 2003.10.23
花蓮港は入れん港
台湾の地名を見ていて、おやっと思うところがある。花蓮だ。あそこの地形は周囲断崖絶壁で、それが売り物の観光名所でもある。そこになぜ「蓮の花」などと美しい名が付けられたのか。これについては、山口政治氏の名著『東台湾開発史』から引用したい。同書には次のように記されている。
「昔、花蓮港地方のことをアミ族がオキライと言い、漢人が類似近音の◆莱とあて、後に同瀾港と呼ぶようになった。この名は花蓮渓が太平洋に流れ込む河口で激流が荒波とぶつかり渦巻く姿を見て名付けたもので、それを漢音相通ずる花蓮港に改めた。一説には渦巻く海波が海波があたかも蓮の花のように美しいということから付けたともいう。いずれにしても文字の国の漢人らしい発想である。その時期は乾隆年間(1770年代)で、この頃大陸から国禁を犯して渡来してきた者が付けたというが、当時の密入国者には粋な名を付ける心の余裕があったようだ(「中国方志叢書」「台湾地名研究」「台湾大観中外毎日新聞社昭和10年」など)。港がないのに港とつけたのは、港の存在は東台湾の死活問題であったので、願いを込めてのことであろう。花蓮港は港の歴史でもあった。戦後、港の一字を削除し花蓮と改められたが、基隆や高雄にも港があるのに花蓮港だけに港とつけるのはおかしい、ということのようだ」
なるほど、断崖のそそり立つ東部海岸に極楽浄土のような、可憐な名が付けられた理由がこれによって理解できる。人々の希望がそこにあったのだ。また筆者の山口氏は戦前花蓮に住まわれており、子供のころ誰となく「波が荒くて入れん港、米がまずくて食われん港、住めば都よ帰れん港」と言っていたそうな。地名の由来とは関係ないが、旧花蓮港のイメージが彷彿とされるので特に記した。台北週報 2120号 2003.11.20
北港の元の名は栄港
台湾で北港と言えば、小さいながらも嬌祖信仰の中心地として有名だ。ここがどうして婿祖信仰の中心地となったのか。いまでこそ海岸線より15、6キロも入った内陸部に位置しているが、かつてそこは台湾有数の港町として栄え、移住民によって最初に婿祖廟が建立されたからだ。
台湾開発史には、かならず「一府・二鹿・三艦騨」という言葉が出てくる。最初に台湾府(現在の台南)、次に鹿港、さらに艦聊(現在の台北市万華)の順に開発の中心が移っていったというものだが、鹿港が台頭する前は「一府・二栄・三艦紳」といった。つまり栄港というのが台湾開発の中心地になった時代もあり、これが今日の北港の元の名である。
朱港は三畳渓(現在の北港渓)の河口にできた町だった。康煕二十九年(一六九〇)に編纂された『台湾府志』には、「朱港街は港を南北に分かたれ、中央をー渓によって隔てられ、南街といい、北街という。舟や車が激しく往来し、百貨が賑やかに並ぶ」とある。相当にぎわっていたようだ。
だが、栄港の「朱」とは「愚かな」という意味だ。そこは港といっても遠浅の砂地で、しかも堆砂が激しい。大陸からジャンクが着いても桟橋に近づけず、荷の積み降ろしは海岸から出た竹筏に頼らざるを得なかった。実に煩わしい。そこで自嘲気味なこうした名が付けられたわけである。このため各年代に作成された地図も地形が変化し、街の中心地も南街あるいは北街へと移り変わり、海岸線もしだいに市街地から離れ、地名も栄港北街・朱港南街が朱北港、朱南港へと縮まり、やがて朱南港は廃れて農村化し、同治年間(1862-74)には、朱港といえば北港のみを指すようになった。もちろんそこは港の機能を喪失し、地名のみが今日に残ったのだった。台湾週報 2128号 2004.1.29