執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部1年】

「良いものは残る!」は現在の地域で可能だろうか?

「良いものは残る!」

この言葉を否定するつもりはない。確かに良いものは残っている。残っているものは、誰かの努力の賜物であったり、今との生活の違いが顕著であった時代の名残だったりしないだろうか?しかし、現在の全国津々浦々の各地域において、これは果たして可能なのだろうか?という疑問を抱かずにはいられない。

私は18年間、愛媛県の遊子という地域で育った。遊子で育ち、外の世界をあまり知らない私ではあるけれど、その分遊子の生活については詳しいと思う。この経験を活かして、現在の日本の一地域における諸問題について提起してみたい。ともすれば、全国の地域に通じるものがあるかもしれない・・・

18年を通して、失われていったものは感じるだけでも多々ある。以下に例を挙げてみたい。段々畑だった山が荒野になってしまった。地域結束力の衰退・共同体の崩壊。年中行事が徐々に簡略化され、失われていった。私が小学校にあがるまで、裏山全てが段々畑であった。それが、養殖による経済発展と後継者不足によって、段畑は年々、猪の闊歩する山へと還って行った。後継者不足と言っても、人はいるのだ。段畑を耕作する後継者がいなくなってしまっただけである。養殖のみで生活が出来るようになり、先人たちが戦国期から造り続けて来た段畑はあっと言う間に数百年も前の山へと戻っていった。荒山が元の自然であり、良いという人もいるだろう。

しかし、治水や砂防を為してきたであろう、段畑の有益性は失われているのではないだろうか。段畑の管理は難しい。先人たちは難しい管理であろうと、厳しい生活条件下で行っていたはずだ。それが、今では出来ない。人間は利便性を求めるだけで良いのだろうか?という疑問も頭をもたげる。段畑に限らず、棚田や植林地など、日本人が山を用い、耕作してきたことによって、バランスが保たれていたはずである。公共事業としてお金をかけずとも守られていた村の暮らしがあったのではないだろうか・・・

そして、地域の結合力についても思うことがある。小学生の頃、周りがヨソヨソしくなってきているのではないか?という思いを子供ながらに抱いていた。地域の老人たちが次第にその高い知識を胸に収めたまま姿を消していった。老人たちが姿を消すと共に、盆踊りがつまらないものになり、子供心に水荷浦に寂しさを感じるようになった。

そんな地元にないものを求めるかのように、私は共同体として興味深い、江戸時代の庶民文化にはまっていった。しかし、高校になって、自分の住むところでなく、他のものを追いかけても仕方がない!そう思い地元の活気作りをしたいと思うようになっていったのだった。幼い頃を振り返ると、地域に育てられた自分がいた。

幼なじみとは、学校から帰ると、段畑に秘密基地を作ったり、手元にある道具で日が暮れるまで遊んだ。遊び場は山であり、海辺であり、家と海との間にある道路であった。道路で遊んでいたのは、遊子地区でも私の家のある水荷浦だけであった。というのも、家の前の道路は、端まで行っても隣の地区に行ける道路ではなく、交通量の少ない道であったためである。

共同体の崩壊というべき、事実は葬式の変化によって、感じるようになった。以前、葬式は自宅でするのが原則であったが、現在ではその煩わしさを取り去るためか、市街地にある葬祭場で行うようになった。これは、市内に属する島嶼部においても、同様のことであり、船で出かけて執り行うようになっているようだ。

以前の形式として、私が理解している範囲で述べてみたい。(何分、幼少時までしかこの形式が残っておらず、正確に伝えることは出来ない…)家で法要を行った後、家から寺までの間の道を参列者全員で歩いていく。故人の遺影や遺骨、草鞋などを親族が携帯し、後ろに続く参列者たちはそれぞれお菓子などが入った容器を持たされる。

このお菓子は寺に着くまでに道端で見守っている人たちに配ってしまわなければならない。夜は、家で故人の供養を兼ねて会食をする。これが今では葬祭場での供養の後、同場で会食。家に親族以外が集ることはなくなってきている。家に集わないことで、郷土料理を振る舞う機会がなくなってしまった。

そして、葬式は故人を偲ぶ場であるのだが、地域の情報交換の場でもあり、子供たちの集う場でもあった。葬式に限らず、地域の大人たちが昔のように集うことがなくなりつつある。それは、経済的基盤が漁業から離れ、外に働きに行く人が増え、これまでのように水荷浦全体で同じような仕事をし、時間にも都合が付き易かった状況が変化しつつあるためでもある。仕方がないといえば、それまでなのだが、寂しいものである。

年中行事として、子供には亥の子があった。亥の子は主として関西以西で行われる稲の刈上げ祭である。米を作ってこなかった遊子においても存在するので、米だけでなく穀物の豊穣を祝ってのものであったのではないかと推測する。この亥の子は男の子の行事であった。

現在では、少子化のため女の子もつくようになったが、私が小学生の頃は男の子のみの行事であった。亥の子の練習は、唄の伝承である。小学校最高学年の男子が先頭になり、夕ご飯後集って練習を行った。今年入学したばかりの男子に上の子が教えていく。練習の場ではあるけれど、大部分が遊びの場であったように思う。

当日は、亥の子の石を神社から降ろしてきて、各家の庭に石をついた。最近では、土の庭も少なくなり、本当につくことはなくなってきている。唄の中から2・3曲を選びつき、ご祝儀をもらった。そのご祝儀の中から、おこもりといって、集会所でご飯を食べて泊まる費用に当てられて、残りは学年があがるごとに多く分配されていった。これも、少子化の影響で男女混合になっているが、小学生がいなくなれば、この伝承は途絶えてしまう。

このように、遊子を中心とした諸問題を挙げてみた。地元の人々は煩わしさの軽減を選ぶ。文化ではなく、都会的な生活が地域にも流入してきており、価値観も変わってきている。これまでとても長い間に培われてきた文化が戦後の社会変化の中で多々失われてきているように思う。「良いものは残る!」と人は言うけれど、今の時代、そうも言っていられないのではないだろうか?中央の良さでなく、地域の独自性・良さが日々失われてきている。

完全に失われる前に、自分だけでも地域の慣習や伝承などを書き留めておきたい!その思いからHP作りが始まった。書き留めるだけではいけない。また、他人に任せるだけでなく自分も伝承していきたい!と思うようになってきた。遊子で生活することは、これから困難を伴うが、故郷の伝承を失うのは寂しい。「文化で飯が食えるか!」という言葉が聞こえてきそうだが、地域での可能性を探っていきたい。今は遊子を離れ、関東で暮らしているが、遊子の良さは遊子にいただけでは、はっきりと認識できなかった。外を知り、また、故郷を見つめていきたいと思っている。